ひとりしょんぼり
こんにちは。
本日の授業で、『聊斎志異』巻11「竹青」を翻案した、太宰治「竹青」を読みました。
この太宰治の小説には、それが基づいたという田中貢太郎訳にも、原文にもない、
おびただしい数の中国古典や漢詩の引用が認められます。
(こちらにその主だったものを挙げてみました。)
その用いられ方は、たとえば、次のような具合です。
(主人公魚容の妻は)魚容が「大学の道は至善に止るに在り」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走に止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って……
魚容が口ずさんだのは、『礼記』大学にいう「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」、
それを、彼の妻はこのように言い換えて小ばかにしているのです。
また、帰郷してひどい目にあってばかりの魚容が、竹青との日々を思い出して、
「朝に竹青の声を聞かば夕に死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇しく懐慕せられるのである。
この魚容の科白は、『論語』里仁にいう「子曰、朝聞道、夕死可矣」をもじったものです。
「道」を「竹青」に変換して言っているのが、可笑しくてそこはかとなく悲しい。
今ここに挙げたのは、非常にわかりやすい例ですが、
多くの引用は、このような調子で、小説に何ともいえないおかしみを添えています。
ところが、これが学生たちに通じませんでした。
オンライン授業を終えて、ひとり憮然(しょんぼり)としています。
2021年1月18日