友情の変質か

おはようございます。

一昨日の続きです。
長慶二年(822)頃の元稹の周囲には、
宦官との交際をめぐる黒いうわさが立ち込めていました。
それゆえ、彼が工部侍郎として、宰相と同等の同平章事を拝命した時、
世の人々は冷笑したといいます(『旧唐書』巻166・元稹伝)。

ただ、第三者が語る話からのみ、彼の為人を決めつけていいものか、
彼にとっての真実は、彼自身がその思いを詠じた作品の中にこそあるはずだ、
と先には述べて、翌長慶三年の彼の詩「寄楽天」を紹介しました。

とはいったものの、
元稹という人にはこの間、何らかの変質が生じていたのかもしれません。
というのは、前掲の元稹詩に答えた白居易の詩を読むと、
それ以前に二人の間でやり取りされた詩とは少し異質なものを感じるからです。
その「答微之詠懐見寄(微之が懐を詠じて寄せらるるに答ふ)」(『白氏文集』巻53、2320)は、
次のような詩です。

閤中同直前春事  官庁の中でともに宿直したのは、前の年の春のことだった。
船裏相逢昨日情  船の中で再会を喜び合ったのは昨日のことである。
分袂二年労夢寐  袂を分かって二年、ありがたくも君は夢の中でも私を気にかけてくださり、
並牀三宿話平生  寝台を並べて同宿した三日間の夜、我等は往年のことを語り合った。
紫微北畔辞宮闕  私は、紫微省(中書省)の北で、皇城に別れを告げ、
滄海西頭対郡城  大海原の西で、郡の都城に向き合っている。
聚散窮通何足道  人の世の離合集散や困窮栄達など、語るに足るほどの価値はない。
酔来一曲放歌行  酔いが回ってきた、一曲、声を張り上げて歌を歌おう。

長慶二年の7月まで、白居易は中書舎人(正五品上)として中央官庁に勤めていました。
一方の元稹も、同年2月から6月まで、工部侍郎(正四品下)にして同平章事(宰相)でした。*
白居易詩の第1句は、このことを背景としているでしょう。

翌年8月、元稹は同州刺史(従三品)から越州刺史・浙東観察使に転出することとなり、
10月、その赴任途上で杭州に立ち寄り、前年に当地の刺史となっていた白居易と再会しました。
前掲の白居易詩の第2句は、このことを指して言っています。

第3・4句、第5・6句も淡々と対句を重ねるばかりで、そこに特段の感情の高ぶりは認められません。
若い頃にまで記憶を遡り、来し方を振り返って感慨を詠ずる元稹詩に比べると、
白居易のこの詩はやや冷ややかなようにも感じられます。

更に結びの「聚散窮通 何ぞ道(い)ふに足らん」はどうでしょう。
元稹詩の「猶ほ応(まさ)に更に前途の有る在り」との温度差を感じないではいられません。
末尾の「酔ひ来たりて一曲 放歌行せん」も、どこかはっきりしない句です。
「放歌行」せざるを得ない感情のうねりは見えるものの、
その思いの内実は隠されているかのようです。

その数年ほど前、元稹宛ての書簡「与微之書」(『白氏文集』巻28、1489)の中で、
「籠鳥も檻猿も倶に未だ死なず、人間相見ること是れ何れの年ぞ」と詠じていた白居易の面影は、
この「答微之詠懐見寄」詩のどこにも認められません。
(つづく)

2021年1月23日

*白居易・元稹の経歴に関しては、昨日注記した先行研究と同じものを参照。以下同様。