推測と憶測
こんばんは。
「相和」と総称される魏の宮廷歌曲群があります。
それが、古い来歴を持つ特別な歌曲群であったらしいことは、
すでに何度か述べました。(たとえば2019年12月18日、2020年8月8日、8月9日など)
「相和」は、いわゆる「清商三調」とは区別しないと見方を誤るし、
まして、宗廟を祭る歌舞や、王朝の成立経緯を歌い上げる鼓吹曲などとは一線を画します。
いくら楽府詩というジャンル名で総称されていようと、
いくらその中に類似する発想が認められようと、そこは同列には論じられません。
そんな、魏王朝にとっては特別な「相和」歌辞なので、
その作者は、古辞(古い詠み人知らず)か、武帝曹操か、文帝曹丕に限定されます。
このことはすでにこちらにも示したとおりです。
誰でもその歌辞が作れるわけではなかった「相和」ですが、
その唯一の例外が曹植です。
彼は、曹操の歌辞による「薤露・惟漢二十二世」に対して、「薤露行」「惟漢行」の二首を、
また、古辞「平陵東」に対して、替え歌を一首作っています。
他の文人には、そうした表現行為は認められません。
こうしてみると、曹植における「薤露」歌辞の制作は、何か非常に突出して見えます。
ただ、この時代の作品は多く散佚しているのです。
曹植は「相和」の他の楽曲にも歌辞を作っていたのではないか。
魏朝に仕えた人で、「相和」歌辞を作った人は曹植以外にもいるのではないか。
そのような疑問も当然起こってくると思います。
ですが、それを疑うならば、この時代の文学研究はすべて成り立たなくなる。
要は、多くの散佚作品がある可能性を常に念頭に置きながら、
たとえば「相和」の作者について言えば、そこに歴然とある偏りに目を向けること、
そして、曹植という人物が置かれた立場(魏王朝の一族)を視野に入れることでしょう。
ところで、北宋時代末頃に成った『楽府詩集』、
時代が900年ほど隔たっているのですが、その分類には意外と多くの論文が従っています。
疑問視ということにも、盲点のようなものがあるのでしょうか。
推測と憶測とは、似て非なるものです。
推測は、空白の存在を自覚しつつ推し測る、学術的な行為だと私は思います。
2021年2月19日