文学作品を俯瞰できるか
こんばんは。
先日来ゆるゆると読んできた『文選』巻29所収の曹植「朔風詩」、
本日やっと李善注に従っての語釈を終えましたが、肝心の本文がよく読めません。
李善が珍しく「言ふこころは」云々と句の解釈を示しているのは、
それなくしては読者が意味をよく掴めないからでしょう。
また、本詩の成立年代に関して、先行研究に諸説があることも、*1
本作品の難解さを物語っているようです。
とはいえ、この詩が建安年間の作ではないことは明瞭に看取されます。
本作品が、曹植の後半生、その苦境の中で作られたものであることはほぼ確実でしょう。
艱難の中で詠じられた詩と言えば、阮籍(210―263)の「詠懐詩」八十四篇が思い浮かびますが、
この作品も、比較的近い時代の顔延之(384―456)や沈約(441―513)にとってさえ、
「難以情測(情を以て測り難し)」だったといいます(『文選』巻23李善注所引)。
その真意がつかみにくいという点では、阮籍詩も曹植詩も同じです。
ところで、吉川幸次郎の所論に、阮籍「詠懐詩」についてこう書かれています。
「もはや従来の五言詩のように個人的な哀歓ではない。ひろく人間全体にひろがる問題である。」*2
そして、曹植ら建安詩人たちの作品は「個人の哀歓を主題とする」傾向が強いとしています。
吉川論文は、阮籍「詠懐詩」が「五言詩の歴史の上にしめる地位を明らかにしようと」したものです。
だから、いきおいこのような書き方になるのでしょう。
けれども、地を這うような歩みで曹植作品を読み進めている自分は、
固有の人物の切実な思いを、そんな風に高いところから俯瞰したくないと感じてしまうのです。
2021年3月5日
*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1973年)巻1、p.46―49、伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.99―107を参照。
*2 吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附阮籍伝』(岩波書店、1981年)p.32を参照。本論文は『吉川幸次郎全集』第七巻所収。初出は『中国文学報』第5冊、1956年10月、及び第6冊、1957年4月。