後漢末の儒者の野性味
こんばんは。
昨日言及した『後漢書』蔡邕伝に、次のような逸話が載っています。
蔡邕の隣人が、酒食の席を設けて彼をもてなそうとした。
ところが、蔡邕はその門前まで来て、奏でられる琴の音に殺気を感じて引き返す。
それは、琴を奏でる人が、カマキリに狙われている蝉を見て恐れおののき、
その気持ちが琴の音色に出ていたのであった。
蔡邕はこれを聞くとにっこりと笑い、そういうことだったのか、と言った。
音を聞いただけで、それを奏でる人の心のあり様が感じ取れる。
その直観に基づいて、迷うことなく自分本位の行動を取る。
謎が解けたあとは、自分の勘違いをさらりと認めて流す。
研ぎ澄まされた、融通無碍な精神のあり様に、しなやかな野性味を感じます。
そういえば、あの大儒者鄭玄も、私たちの意表をつくような人物像です。
彼は、身長180cm余り、大酒飲み、眉目秀麗、温和なたたずまいだったそうですが、
加えて様々な学芸に通じた通人で、招かれた袁紹の宴で一座の人々を驚かせたといいます。
(『後漢書』巻35・蔡邕伝)
儒学者というと、私たちはつい頭の硬そうな人を想像しますが、
当時の儒者は、もっと自由闊達な雰囲気を纏っていたように感じられます。
彼らは、硬軟両方の世界に通じた人々でした。
2021年3月9日