なぜ論文を書くか。

こんばんは。

論文を書いて、それが誰かに理解されることは僥倖と言ってもよいくらいです。
どんなに言葉を尽くして論じても、だからといって理解者が増えるわけではありません。
それなのに、どうして自分は一所懸命になって、
自身の思い込みを精査し、論証と検討を重ねようとするのだろうか。

いわゆる承認欲求というものではありません。
正直、論さえ残れば、わたしは消えてなくなってしまってもかまわないと思う。

孔子はこのようなことを言っていました。

志有之、「言以足志、文以足言」。不言誰知其志、言之無文、行而不遠。……
(『春秋左氏伝』襄公二十五年)

古い記録にこうある。
「言葉によって意志が十分に伝わり、修辞によって言葉が十全に表現される」と。
言葉を発しなかったら、誰がその思いをわかってくれよう。
言葉を発するのに美しさを伴わなかったら、遠くまでの影響力を持ち得ない。……

「文」を伴う言葉とは、口語ではない、書き言葉(文言)という意味であって、
決して、美しく飾り立てた言葉という意味ではありません。
自分が身を置いている世界の外に向けて開かれた、第三者にも届く言葉。
少しだけ日常的な言語からは距離をもって存在している、理の世界の言葉です。

老荘思想家があれだけ無為自然を言いながら、
その無為自然のなんたるかを、言葉を尽くして説くことも同じでしょう。
やっぱり人は誰かと手を携えて理解し合いたい生き物なのです。

感情に振り回される日常を送っていたとしても、
いつか誰かに届けと念じつつ、自分の説を矯めつ眇めつ鍛え直して論文を書く。
(世間の皆さんに広く影響を及ぼしたいと思っているわけではなくて)
そういうタイプの人間がいることも許されるだろうと思っています。
むろん多数派でないことは承知しています。

2021年3月14日