制作年代の推定を求める作品

こんにちは。

昨日触れた曹植「美女篇」は、
古楽府「艶歌羅敷行」の特徴的表現をベースとして、
これに、古詩には割合よく見かけるテーマを織り交ぜて成っていました。

古詩によく見かけるテーマとは、
賢明なる君主を探し求めて得られない焦燥感ですが、
これを曹植の自己不遇感に重ね合わせて解釈する先行研究もあります。

けれども、そうした解釈はあくまでもひとつの見方に過ぎず、
それなくしては本作品の世界を捉えることができないというものではありません。

ところが一方、制作年代の推定なくしては、
その作品の読みがうまく成立しないというものが確かにあります。
それは、どのような作品でしょうか。

これまでに考察したことのある曹植作品でいえば、
たとえば、「朔風詩」「惟漢行」「雑詩六首」の中のいくつかがそれに当たります。
では、これらの作品はその成立年代の推定をどう私たちに求めてくるのか。

その兆候は、作品の中に、ある種の不可解さとして表れています。
作品の世界だけで完結できない欠落感がそこにあるのです。
その欠落は、現実と作品との関係性を推し測ってこそ埋めることができるものです。

そうした作品の不完全さ、不可解さは、
作者が、現実から韜晦しつつ、それでも何らかのサインを読者に残そうとして、
敢えて設けたものである可能性が高いように感じます。

2021年3月21日