偽書に対する認識

こんばんは。

『文選』李善注に従って曹植「白馬篇」(巻27所収)を読んでいます。
その中で、今日ひとつよくわからないことに遭遇しました。
それは、『孔子家語』に対する李善の扱いです。

『孔子家語』といえば、今では王粛による偽書だと認定されています。
ところが、李善注は割合多くこれを引いているのです。*1

今日当たったのは、その辯物篇で、次のような文面です。

孔子曰、隼之来遠矣、此粛慎氏之矢也。昔武王克商、通道於九夷百蛮、使各以其方賄来貢、而無忘職業。於是粛慎氏貢楛矢石砮、其長尺有咫。
(孔子曰く、隼の来ること遠し、此れ粛慎氏の矢なり。昔 武王 商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各おの其の方賄を以て来貢し、而して職業を忘るること無からしむ。是に於いて粛慎氏は楛矢石砮の、其の長さ尺有咫なるを貢ぐ。)

一方、『国語』魯語下にも、次のようにあります。

仲尼曰、隼之来也遠矣、此粛慎氏之矢也。昔武王克商、通道于九夷百蛮、使各以其方賄来貢、使無忘職業。於是粛慎氏貢楛矢石砮、其長尺有咫。

このように、『国語』と『孔子家語』とはほぼ同じ文字列から成り立っています。

どちらかがどちらかを剽窃していることは確実で、
では、どちらが剽窃したのかといえば、
それは、『孔子家語』の方だと見て間違いないでしょう。
というのは、この書物は、『国語』以外の書物ともよく同じ文面を共有しているから。
つまり、様々な書物から、孔子に関係する逸話を集めたのが『孔子家語』だということです。

このことは、今ではすでに常識に属することだろうと思いますが、
問題は、これが偽書であることを、李善が認識していたのかということです。

同時代の顔師古は、
『漢書』巻30・藝文志、六芸略・論語に記す「孔子家語二十七巻」に対して、
「非今所有家語(今の有する所の家語に非ず)」と注しています。

これに拠って、狩野直喜は次のように言っています。
「唐の時代から此の書を擬作と疑ったことを知り得るのである。」*2

李善ほどの読書家が、
このことについて無頓着とも思える姿勢を示しているのが不思議です。
書物の真偽を云々するような概念はなかったのでしょうか。

2021年3月25日

*1 富永一登『文選李善注引書索引』(研文出版、1996年)p.10~12を参照。
*2 狩野直喜『中国哲学史』(岩波書店、1953年第一刷発行、1981年第十八冊発行)p.307を参照。