現代中国と中国古典

こんばんは。

まだ旧年度内に身を置いてはいますが、
カーテンを一枚めくれば次の年度がもうすぐそこに待っています。
何人の学生が中国古典文学に関係する授業を受講するか、
いつも年度初めは気持ちが落ち着きません。

様々な地域と分野から成る国際文化学科というところで長く揉まれ、
現代社会の縮図のような学科で肩身の狭い思いをすることには慣れましたが、
(もちろん投げ出したわけではありません。)
昨今は、ニュースなどで流れてくる「中国」への拒否反応から、
中国の古典に対しても冷ややかな距離感を持つ学生が、
文学部を備えたような大学でも目立って増えてきたとよく耳にします。

とんだとばっちりです。
とはいえ、現代中国と中国古典とはまったくの別物だと言えるか。
私には両者を切り離して考えることはできないように思えてなりません。

中国古典文学と、近現代の中国文学は、地続きです。
同じように、近代以前の中国と、現代中国とは同じ根でつながっているはずです。

中華思想はもちろん今も昔も健在ですが、
国家とか、国境といったような概念は比較的新しいものでしょう。
両者が合体した時に、非常に圧迫感を周囲に与える存在になるかもしれない。

また、現代の日本人が持つ嫌らしさのようなものも、
昔からあった性質が、何かと融合して醜く肥大化したものかもしれません。

そもそも、どんな文化圏でも、また個人でも、
完全なる善、あるいは完全なる悪というものは存在しないでしょう。
それに、本質はそんなに短いスパンで変わるものではないし、
本来的には、あるものが備えている特質に、良いも悪いもないはずです。
そして、その特質には、それを備えるに至った理由が必ずあるものだと思います。

こうしたことを、どんなふうに学生たちに考察してもらおうか。
新学期を前にしてぼんやりあれこれ思います。

2021年3月29日