身を投げ出す、とは言っても

こんばんは。

本日、曹植「白馬篇」の訳注稿を公開しました。
その中で、「捐躯」という辞句になんとなく既視感を覚えて調べてみると、
他にも三例、すでに訳注を施している作品の中に見つかりました。

まず、秦の穆公の死に殉じた三人の臣下を詠じた「三良」詩(04-18)に、

誰言捐躯易  誰か言はん 躯を捐(す)つること易しと、
殺身誠独難  身を殺すことは誠に独り難し。

転がってゆく蓬を描写した「雑詩六首」其二(04-05-2)に、

類此遊客子  類す 此の遊客子の、
捐躯遠従戎  躯を捐てて遠く戎に従ふに。

また、明帝に対して、自らの任用を求めて切実な、
「求自試表」(07-06)にも次のようなフレーズが見えています。

固夫憂国忘家、捐躯済難、忠臣之志也。
固(もと)より夫れ国を憂へ家を忘れ、躯を捐てて難を済(すく)ふは、忠臣の志なり。

このうち、「三良」詩は建安16年(211)頃の作、
「求自試表」は明帝の太和2年(228)の作であること確実です。
「雑詩六首」其二については未詳ですが、
『文選』李善注には、文帝の黄初4年(223)の作だとの推定が示されています。
(制作年代の推定に関する詳細は、それぞれの作品の解題をご覧ください。)

曹植はこのように、時期を問わず、「捐躯(わが身を捨て去る)」という語を用いています。
けれども、その語の用い方、ニュアンスには違いがあるようです。

「三良」詩では、我が身を投げ出すことの困難を、
「雑詩六首」其二では、我が身を捨てて従軍する人の悲哀を詠じる一方、
「求自試表」では、国難を救うため、我が身を犠牲にすることを志願しています。

「捐躯」という語が、作者の置かれた状況とどう関わっているのか。
そこに着目すれば、自ずから曹植におけるこの語義の位置が見えてくると考えます。

「白馬篇」における「捐躯」はどうでしょうか。
もし、本作品の制作年代を推定する必要に迫られたならば、
この語が引き受けている文脈を、ひとつの糸口にすることは可能かもしれません。

2021年4月2日