「思い出す」文学研究
こんばんは。
文学研究とは「思い出す」ことだ、
とは、たしか小林秀雄が言っていたのだったかと思いますが、
十数年ほど来、折に触れて思い出す言葉です。
研究の対象である文学作品を、客体化して評論するのではなく、
自分自身の中にある記憶を掘り起こすこととして行う。
これはいったいどういうことでしょうか。
どんなに昔の人であっても、人間の心はそんなに変質してはいない、
だから、その人の思うことは、自分の中にもその片鱗は存在しているはずで、
それを掘り起こし、思い出す、それが文学研究である、と。
ただ、このことは、研究対象を自分に引き付けて好きに解釈することではありません。
まず、生きた時代や環境が違うのだから、それは実は不可能です。
ある作家、作品、文学的事象などを、自分の記憶として「思い出す」ためには、
その相手の座標に飛び込んでいく必要があります。
その上で、作品なり記録なりを読んでいく。
対象を理解しようとすれば、自分自身の中を耕すことは必然です。
素の自分にはなかった、はじめて出会う思いにも遭遇することがありますから。
けれど、同じ人間である以上、必ずどこかに理解の糸口はあるはずで、
そうして耕された自分になって始めて、冒頭に述べた「思い出す」ことができます。
思えば、一見客観性があるかのように思われる研究分野においてさえも、
誰から見ても同一の結論になることばかりではないようです。
文学を研究する自分は、もっと自信をもって、
古を生きた自身を「思い出す」ということをしたいと思います。
2021年4月3日