『焦氏易林』と歴史故事

こんにちは。

劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」という論文を読みました。*1
昨日触れた『焦氏易林』の中に歴史故事を取り上げたものが少なくないことに注目し、
その具体的な詩篇(『焦氏易林』は、四言詩様式でその哲理を説く)を挙げて、*2
特に司馬遷『史記』との関係性の深さを指摘しています。

『史記』は、その成立当初(前漢武帝期BC97)、正副あわせて二部のみでした。
『史記』巻130・太史公自序に、「蔵之名山、副在京師(之を名山に蔵し、副は京師に在り)」とあります。

その後の『史記』の流伝について、『漢書』巻62・司馬遷伝にはこうあります。

遷既死後、其書稍出。
宣帝時、遷外孫平通侯楊惲祖述其書、遂宣布焉。

司馬遷が没して(武帝期BC86頃)以降、その書物(『史記』)は少しずつ世に出るようになった。
宣帝(在位BC74―BC49)の時、司馬遷の外孫、平通侯の楊惲がその書物を祖述し、かくして流布することとなった。

焦延寿は、昭帝期(BC87―BC74)から宣帝期頃の人のようで、*3
河南省陳留郡の小黄県の官吏として生涯を終えたことが、『漢書』巻75・京房伝に記されています。

これらのことを考え合わせてみると、
果たして焦延寿は『史記』を目にすることが可能だったか、やや疑問です。

もし焦延寿が直接『史記』を目睹できなかったのであれば、
『焦氏易林』に見える歴史故事を詠じた四言詩は、

どこからその素材を得たのでしょうか。

2021年4月13日

*1 収載する学術雑誌は、『渭南師範学院学報』第26巻第1期、2011年1月。
*2 陳良運『焦氏易林詩学闡釈』(百花洲文芸出版社、2000年)中編第四「中国古代哲理詩之淵藪」の用語を用いた。
*3 陳良運前掲書p.275―282を参照。