闘鶏観戦と物寂しさ
こんばんは。
昨日、曹植「闘鶏」(05-04)を読み始めました。
この詩は、古くは『藝文類聚』巻91に収録されていますが、
そこには、劉楨や応瑒の、同じ題目の作品もあわせて収載されています。*
そこで目に留まったのが、応瑒の詩の最初に見える次のような句です。
戚戚懐不楽 びくびくと恐れつつ心中は楽しまず、
無以釈労勤 疲労を解きほぐすすべもない。
兄弟遊戯場 兄弟(曹丕・曹植ら兄弟か)は遊戯場に遊び、
命駕迎衆賓 御者に命じて馬車の準備をさせ、賓客たちを迎えにいかせた。
曹植の詩の冒頭にも、次のようにあります。
遊目極妙伎 目を遠くへ遊ばせて、舞踊の妙技を眺め尽くし、
清聴厭宮商 耳を澄ませて、飽きるほどに音楽を聴き尽くした。
主人寂無為 主人は、ひっそりとした心持ちで何もすることが無く、
衆賓進楽方 賓客たちは楽しみの方法を進言した。
両詩とも、この後に闘鶏の場面の激烈な描写が続くのですが、
その前に、こうした物寂しい心情描写が置かれていることに意表を突かれました。
これはどういうわけなのか、心にとめておこうと思います。
なお、もう一人の劉楨の詩には、こうした要素は認められません。
応瑒や曹植のような表現は、当時として一般的であったとも言えないようです。
2021年4月29日
*三者を比較する論が、鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)p.602~603、p.634~635に見えているが、ここに書き留めた部分は取り上げられていない。