第三人称で詠ずる詩

こんばんは。

昨日言及した応瑒の「闘鶏詩」(『藝文類聚』巻91)の中に、
「兄弟は戯場に遊び、駕を命じて衆賓を迎ふ」という句がありました。
この「兄弟」とは、曹丕・曹植ら兄弟を指すのでしょう。*1

ただ、応瑒と曹氏兄弟との関係性から言って、
「兄弟」という語が用いられていることに少しく違和感を覚えました。

応瑒は、曹操に召されて丞相掾属となってから、平原侯(曹植)の庶子となり、
後に、五官中郎将(曹丕)の文学に遷っています。(『三国志』魏書巻21・王粲伝)

曹植が平原侯となったのは建安16年(211)、
同年、曹丕は五官中郎将・丞相副となり、建安22年(217)に太子となっています。

すると、応瑒から見て、曹植や曹丕は上司に当たるような存在です。
そうした二人を、「兄弟」という語で呼んでも不都合はなかったのでしょうか。

「兄弟」という語は、詠み人知らずの楽府詩(古楽府)には割合よく見かけます。
たとえば、「相和・鶏鳴」(『宋書』巻21・楽志三)に、*2
 「兄弟四五人、皆為侍中郎(兄弟四五人、皆 侍中郎と為る)」、
「相逢狭路間(相逢行)」(『玉台新詠』巻1)に、
 「兄弟両三人、中子為侍郎(兄弟両三人、中子は侍郎と為る)」、
「艶歌行」(『玉台新詠』巻1)に、
 「兄弟両三人、流蕩在他県(兄弟両三人、流蕩して他県に在り)」、
「古上留田行」(『文選』巻28、陸機「豫章行」李善注)に、
 「兄弟有両三人、小弟塊摧独貧(兄弟両三人有り、小弟は塊摧して独り貧し)」のように。
こうしてみると、この語は割と類型化された文脈上に登場するようです。

一方、応瑒「闘鶏詩」の「兄弟」は、これとは違ってリアルな兄弟を指すようです。
そして、その言葉で眼前の兄弟二人に向かって呼び掛けているのではなく、
第三人称でその存在を淡々と指示しているようなスタンスです。

「闘鶏詩」は、曹植、応瑒、劉楨の作品が残っているのでしたが、
劉楨も、かつて応瑒と同じく平原侯曹植の庶子でした。(『三国志』魏書巻12・邢顒伝)
そうすると、この三人の作は同じ機会に作られた競作である可能性もありますが、
それにしては、応瑒の詩はその詩作のスタンスがどこか冷やかです。
考察の見通しも何もない、あるのは印象だけですが。

2021年4月30日

*1 林家驪『阮瑀応瑒劉楨合集校注』(河北教育出版社、2013年)p.62も、曹丕・曹植兄弟二人を指すとする。
*2 以下、出典は最も古いものを挙げた。この時代の詩歌を網羅的に集めた逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1984年第2次印刷)でのページ数を挙げれば、「相和・鶏鳴」p.258、「相逢狭路間(相逢行)」p.265、「艶歌行」p.278、「古上留田行」p.288である。