天地の精霊に捧げる歌

こんばんは。

『宋書』楽志二所収の宮廷歌曲の歌辞に語釈を付けていった後、
一日の終わりに平賀周蔵の漢詩を読むのがこのところの日課になっています。

『宋書』楽志所収の楽府詩が典故表現を連ねていることは当然として、
今日は平賀周蔵まで典故をまるごと用いた詩を詠じていました。
「華表松(鳥居の松)」という詩が、
『捜神後記』所収の、次のような故事をまるごと踏まえるものだったのです。
丁令威という人が、仙術を学んで、鶴に姿をかえて故郷に戻り、
華表(街の標識)のあたりに飛び戯れていたところ、
若者に矢を射かけられ、空高く飛び去っていったという話です。

漢学の素養豊かな平賀周蔵にとって、
「華表」といえば、丁令威が彷彿として浮かび上がる。
それを踏まえて詩を作ることは一種の知的遊戯であったでしょう。

ただ、今日の私は、少し虚ろな心持ちでこの詩を読みました。
というのは、昨日、「ブータン 山の教室」という映画を見てしまったから。

この映画の中で、土地の歌を歌う女性が言った言葉が忘れられません。

(主人公に、どういうわけで毎日歌を歌っているのか聞かれて。)
「私は歌を天地の精霊、万物に捧げています。」
(更に、歌を捧げるとはどういうことなのかを聞かれて。)
「鳥は鳴くのに誰がどう思うかなんて考えないでしょう。私もそれと同じです。」

あまり正確な記憶ではありませんが、このような趣旨の言葉でした。

また、別の歌で「純粋な心」という言葉が繰り返されていたことも印象に残りました。

時代が下ってからも、先人の言葉によりかからず、
自身が眼前にあるものから直接素手で何かを掴みとってきたような詩は、
そこに天地の精霊が降りてきていたのかもしれません。
その言葉が生まれる瞬間、小さな自我は消え去っていたのではないでしょうか。

自身の言葉が、人間を超えた崇高ななにものかに捧げられる。
人が歌うというのは、本来このようなものであったのか、と打たれました。

2021年5月3日