現代日本人の病
こんにちは。
昨日に続き、まだ一昨日見た映画「ブータン 山の教室」の余韻の中にいます。
半ばいたたまれない気持ちで見たシーンで、強く印象に残っているのが、
主人公をふもとの町まで迎えにきた村の若者の態度と科白です。
主人公である、やる気のない新任教員は、
若者と食事をともにするときも電子機器を手放しません。
そんな相手に対して、「先生はそれの名手ですね」といった風な言葉をかけます。
その目には、皮肉めいた意地悪な光など微塵も宿っていません。
静かに微笑んで、淡々としたものです。
また、もう一人の同行者の若者は、
旅の安全を祈願して、石を積んで神に祈り、主人公にもそれを促しますが、
やる気のない新任教員は、そんな神など信じてはいません。
すると、それを咎めるでもなく、「では私が代わりに」と石を積んでいくのです。
彼ら山の人々はなぜここまで純粋かつ強靭でいられるのか。
それは、山の精霊たちとともにあるという実感からではないかと思います。
(精霊という言葉は正確ではないかもしれませんが、人間を超えた存在という意味です。)
ひるがえって自分はどうか。
授業で学生たちにうまく言いたいことが伝わらなかった、
今年もゼミ生はだれもいないのではないか、
同僚に誤解されたのではないか、などといちいち憂えています。
要するに、考えても仕方がない他人の心に、勝手に振り回されているのです。
これは多かれ少なかれ、現代日本に生きる人間はみな罹っている病かもしれません。
あの山の人々のように、
自身を大いなる存在の中に置いて生きることができたなら。
思えば、これは中国の道家思想と共鳴しあう考え方だとふと気づきました。
2021年5月4日