同時代作品の援用
こんばんは。
共同研究で読んでいる『宋書』楽志二の、
成公綏の楽府詩「晋四箱歌十六篇」中の数篇の訳注を終えました。
西晋王朝の宮中で、元旦に歌われた雅楽の歌辞です。
書いてある内容は理解できるにしても、
踏まえている経書や先行作品があるようなないような、
そのあたりのところがはっきりしない表現が多くて往生しました。
明らかにそれとわかるような典故表現ではない、ということは、
すでにそうした発想が常識となっていたことを意味するのかもしれません。
そうした中で、少し引っかかっているのが、
同時代の文人の表現を援用したかと思われる辞句が散見することです。
たとえば、次の句に見える「仁風」という辞句について。
播仁風 仁愛あふれる風を広く吹きわたらせ、
流惠康 民への恵みをゆきわたらせる。
為政者の民への働きかけを風に喩えること、
そして、その為政者の働きは仁徳を基本とすることは、
当時の政治思想、及びその文学的表現においては常識に属することです。
ただ、「仁風」と熟した語句が、
皇帝の民に対する恵みと対句で用いられている例は、
同時代の応貞「晋武帝華林園集詩」(『文選』巻20)にいう、
「玄沢滂流、仁風潛扇(玄沢 滂く流れ、仁風 潛かに扇ぐ)」くらいでした。*1
(ただし、文字どおりの「管見の及ぶ限り」です。)
応貞のこの詩は、西晋王朝が成立してほどない泰始四年(268)、
武帝司馬炎の主催する、華林園での宴に参列した際に作られたものです。
(『文選』李善注に引く干宝『晋紀』及び孫盛『晋陽秋』)
この宴に招かれた群臣の中に、成公綏がいた可能性はないでしょうか。
もしそうならば、彼は同僚の応貞が作った詩の辞句を覚えていて、
宮廷雅楽の歌辞作成にそれを織り込んだのかもしれません。
いや、やっぱり、「仁風」と恵みとの対句は常識的な発想でしょうか。
応貞の詩と、成公綏の楽府詩との前後関係も不明ですし。*2
2021年5月5日
*1 「仁風」の用例として、曹植「娯賓賦」(01-17)に「聴仁風以忘憂兮(仁風を聴きて以て憂を忘る)」とありました。
*2 その後、成公綏の楽府詩は、泰始5年以降の成立だとわかりました(『宋書』楽志一)。ということは、応貞の詩の方が先行しています。