教員としての所感

こんにちは。

教員としての無力感を覚えることが少なくない昨今、
これを打破せよとばかりに、教え方の勉強会が学内でも盛んに行われます。

教え方にすばらしい技能を持っているかと問われれば、私は黙り込むほかありません。
長年、自分の至らなさに苦い思いをかみしめながら試行錯誤してきました。

ただ、今朝ふと振り返って思ったのですが、
教育というものには、
こちらの熱意や技術だけではどうにもならない部分があります。
それは、相手あってのことですから。
何かを受け取る用意のない人には、どんな言葉も届かない、
その視点が、昨今の教育技術論には抜けているのではないかと思ったのです。

これを学べば、こんな能力が身につく、とか、
この資格を取得すれば、こんな有利なことがある、などと言われて、
果たしてその学ぶ内容に知的好奇心を感じるものだろうか。
自分ならますます嫌になるだろうと思います。

これはどういうことだろう、なぜだろう、
と考えることそれ自体がものすごく面白いことなのです。
そういう、疑問符でいっぱいの人には、ちょっとした一言も響くはずです。

『論語』衛霊公篇にある次のフレーズ、

子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣。
  先生がおっしゃった。
  「どうしよう、これをどうしよう」と言わない人には、
  私は彼をどうしようもないなあ。

これも、そういうことが示唆されているのだろうと思います。

打っても響かなかった高校時代の私ですが、
孔子という人は、教育者としてすごい人だったのだ、
とおっしゃった国語の先生の言葉が、なぜか深く印象に残っています。

2021年5月21日