書物の中の師
こんにちは。
毎日少しずつ曹道衡先生の論集を書き写しています。
読んで論旨を把握するというよりも、その行論の呼吸を血肉化したくて。
なぜ、曹道衡先生なのかというと、
たとえば「相和」と「清商三調」との違いに目をとめた所論など、*1
これまでに共鳴する内容の論文が多かったからです。
共鳴と言えるような、対等な関係でないことはもとより承知していますが、
論文を書く上で先人の所論を引くときは、同じ土俵上に立っています。
ここでいう共鳴とは、そのようなときに感じた思いです。
さて、先日、嵆康「養生論」の一節を引いて、
古人たちは人知を超えた存在をどう認識していたのか、
という積年の疑問について、新たに得たある視点を述べました。
実は、この嵆康の文章を指し示してくださったのが、
ちょうどその日に書写していた曹道衡先生の「魏晋文学」緒論です。*2
そして今日、写し進めていった先で、次のような言葉に出会いました。
郭璞の「注山海経叙(『山海経』に注するの叙)」を引き、
その思惟の筋道が持つある種の合理性を論じた段にこうあります。
因为人们对世上的事物至今还不能有充分的认识,未知的东西还是比已知的要多。
如果因为不认识、不理解而斥为怪诞,一律否认,亦非求知的好方法。
郭璞这段话,实际上意味着当时人想广泛理解世界的努力。
というのは、人々は世の中の事物に対して、今に至るまでまだ十分な認識は得ておらず、
未知のものはなお既知のものよりもきっと多いに違いないからだ。
もし、知らない、理解できない、という理由でこれを退けて荒唐無稽とし、
一律に否認してしまったなら、それは知を探求する良い方法だとは言えないだろう。
郭璞のこの文章は、当時の人が広く世界を理解しようと努力したことを意味しているのだ。
中国の研究者による論文の中で、このような言葉に出会ったのは初めてです。
研究者の世界に身を置いていてよかったと、心底思いました。
2021年7月18日
*1 曹道衡「《相和歌》与《清商三調》」(『文学評論叢刊』第9巻、1981年5月)。
*2 『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四「魏晋文学」p.167。この書物は、この雑記の別のところにも引用したことがあります。書写が亀の歩みであることが知られて恥ずかしい限りです。