「行行重行行」の主語

こんばんは。

昨日に続いて、また古詩「行行重行行」の詠じ手について。
(詩の本文と通釈は、こちらをご参照ください。)

この詩の前半が、旅行く男性を主語とするという見方は、
その一句目「行き行きて重ねて行き行く」に由来するのかもしれません。
旅行く男性が、自身の身の上をこのように表現したと見るのは自然な解釈です。

たとえば、「行行」を用いた類似表現として、
従軍の苦しみを歌った曹操の「苦寒行」(『文選』巻27)にいう、
「行行日已遠、人馬同時飢(行き行きて日は已に遠く、人馬は時を同じくして飢う)」、
また、曹植「門有万里客」(『藝文類聚』巻29)にいう、
「行行将復行、去去適西秦(行き行きて将に復た行き、去り去りて西秦に適く)」は、
その主語は遠くへ赴く男性です。

ですが、その一方で次のような例もあります。

まず、「古歩出夏門行」(『文選』巻24・27の李善注に引く)にいう、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」。
ここにいう「行行復行行」は、人の動作を表現するものではなさそうです。
敢えて言えば、その主語は「白日」でしょうか。

また、後漢の趙曄撰『呉越春秋』巻十・勾践伐呉外伝に記された、
越の国人たちが、呉へ出征する軍士たちを見送った際に歌った別れの歌の中にいう、
「行行各努力兮、於乎、於乎(さあ行け行け、各々がんばれ、ああ、ああ)」。
ここでは、「行行」という語が、残される者から旅立つ者に向けて投げかけられています。

こうしてみると、「行行重行行」という句は、
時間も距離も、情け容赦なく積み重なってゆくさまを言うもので、
必ずしもその主語を、旅する男性と特定しなくてもよいと言えそうです。

2021年8月18日