注釈者との対話
こんばんは。
毎日少しずつ曹植作品の訳注作業を重ねています。
『文選』所収作品であれば、李善注をまず見ることにしています。
李善注の後を追いかけて調べながら、
正直、そこまでしなくても、と思うことも少なくありません。
それでも、李善の言葉に耳を傾けるのはなぜか。
ひとつには、唐代初めの彼は、私たちの目睹できない文献も見ているため、
それだけ、作者の言語感覚により近づけるだろうと考えるからです。
作者の思いとは別に、読者が自由に解釈してもよいとする考え方もあります。
けれども、私はこの道は取りません。
それは、無意識的に自らを拘束している枠を打ち破りたいから。
「自由」というとき、往々にして現代的な枠に縛られているものだと思います。
だから私は、いったん相手の座標に身を置いてみることにしています。
加えて、李善注とは対話の楽しみがあるからです。
なぜこのような文献を引くのかと問いながら原典を当たると、
結果、そこには自分の意表を突くような解釈が立ち現れることがある。
だから、まったく気が抜けません。
自分を大きく超える存在が眼前にある。
それと格闘することによって、自分の小さな枠を超えていきたい。
2021年8月30日