曹植の言葉の波及
こんばんは。
曹植(192―232)の作品に見える表現で、
彼に先んずる人々の作品には用例が見いだせず、
他方、彼に続く時代の人の作品にその片鱗が見いだせる場合、
その後続作品は、曹植作品の影響を直に受けている可能性が高いと言えます。
これまでにもいくつか、そういった事例に遭遇したことがありますが、
次に示すのも、その一例として見てよいかもしれません。
それは、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の次の句です。
形影相弔、五情愧赧。
自身の身体と影とが哀れみ合うような中、
五つの感情がすべて、恥ずかしさで赤面する思いだ。
「形影相弔」という印象的な句は、
三国・蜀から西晋にかけての李密(224―287)の、
「陳情事表(情事を陳ぶる表)」(『文選』巻37)に次のとおり見えています。
煢煢独立、形影相弔。
寄る辺なく一人ぼっちで、自身の身体と影とが哀れみ合うような状態だった。
また、魏の阮籍(210―263)の「奏記詣曹爽(奏記 曹爽に詣(いた)る)」には、*1
曹植作品にいう「五情愧赧」に似た表現が、次のとおり見えています。
憂望交集、五情相愧。
憂える思いが交々集まってきて、五つの感情が互いに恥じ入る思いだ。
時代が東晋まで下りますが、
陶淵明(365―427)の「影答形(影の形に答ふ)」詩にいう、*2
「身滅名亦尽、念之五情熱(身滅べば名も亦た尽く、之を念ずれば五情熱し)も、
「形」「影」が向き合っているところに「五情」の語が出てくるので、
もしかしたら、曹植作品を意識しているのかもしれません。
2021年8月31日
*1『阮籍集』(上海古籍出版社、1978年)巻上、p.54。
*2『陶淵明集』(中華書局、1979年)巻二、p.36。
※蔡琰の「悲憤詩」其一(『後漢書』巻84・列女伝)にも、自身の影と向かい合うという発想で孤独を表現する、「煢煢対孤景、怛咤糜肝肺(煢煢として孤景に対すれば、怛咤として肝肺を糜(ただ)れしむ)」という句が見えます。ただ、この例の場合、発想は似ていても、用いられた言葉が違います。ですから、どこまで相互に影響関係があったかは不明です。これとは逆に、言葉は同じでも、文脈が異なる、意味が異なるという例もよく見かけるところです。言葉の影響関係は、これを精査することが難しいと感じます。(2021.09.20追記)