場を共有する言葉
こんばんは。
曹植の「公讌詩」(『文選』巻20)にいう、
公子敬愛客 公子 客を敬愛し、
終宴不知疲 宴を終ふるまで疲れを知らず。
これと非常によく似た句が、
応瑒「侍五官中郎将建章台集詩」(『文選』巻20)にこう見えています。
公子敬愛客 公子 客を敬愛し、
楽飲不知疲 楽飲して疲れを知らず。
こんなによく似た二つの詩句ですが、
類似句を、この二首以外の詩文や著作に見出すことはできません。
これは、場を共有する詩人たちが、
相互にその詩句を踏襲しあったとは考えられないでしょうか。
また、応瑒の前掲詩にいう、
為且極歓情 そこで、若様のためにしばし宴の喜びを味わい尽くそう。
不酔其無帰 「酔わないうちは帰るでない」と言うではないか。
これとまたよく似た句が、
王粲「公讌詩」(『文選』巻20)に次のとおり見えています。
常聞詩人語 常々『詩経』の言葉にこうあるのを聞いている。
不酔且無帰 「酔わないうちはまあ帰るでない」と。
今日不極懽 今日 歓楽を極めずして、
含情欲待誰 思いを含んで誰を待とうというのか。
ここにいう「詩人の語」とは、
『詩経』小雅「湛露」にいう「不酔無帰(酔はずんば帰ること無かれ)」です。
応瑒も王粲も共にこれを引くのは、
各々が『詩経』に基づく表現をしたとも考えられますが、
それ以外でも、「歓・懽」「極」の語を二人は共有しているので、
いずれかがいずれかの詩句を引き取って詠じた可能性もあるように思います。
このような事例がもっと他にも見つかるとよいのだけれど。
2021年11月15日