先行研究との対話
こんばんは。
以前にも書いたことがあるような気がしますが、
私は基本的に、作品を読む前に先行研究を読むということをしません。
先行研究は、あくまでも作品について語り合う、対話の相手だと思っています。
人によっては、これはとても傲慢なことと感じられるかもしれません。
ですが、作品そのものに向き合うということにかけては謙虚であると思っています。
(作品を自分の好きなように読んでよいとは思っていないので。)
そんなわけで、今の「対話の相手」は曹道衡と吉川幸次郎です。
いや、「対話の相手」ではなくて、お話を伺うという方が正確ですが。
で、お話を伺いながら、なぜだろう、そうだろうか、と思うことが出てきます。
たとえば、曹道衡の論ずる曹植の人物像について。*
曹道衡論文は、曹植を政治的な野心のある人物であるように捉えています。
けれども、これが私には腑に落ちません。
もっとも、曹植とほぼ同時代の魚豢も、
これに類する批評を彼に対して下しています(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注)。
そうすると、それは、仮に同じ時代の中に身を置いていたとしても、
第三者から見た人物像と、作品の中に立ち現れる本人との間には落差があるということでしょうか。
私が向き合いたいと思うのは、この作品中の本人とです。
曹植の晩年の作には、王朝運営への参画を切望する言葉が目立ちますが、
それ以前の、彼がまだ恵まれた境遇にあった建安年間の作、
たとえば「与楊徳祖書」にも、たしかにそうした野心が述べられてはいます。
けれども、それは当時の人としてはごく常識的な姿勢でしょう。
むしろ彼の個性は、文学創作への情熱の方に傾いているように見えます。
本作品の文脈をきちんと押さえて読んでいけば、
そのことを明らかにできるのではないかと考えています。
2022年2月14日
*曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)