曹植「応詔詩」札記2
こんばんは。
昨日に続き、曹植「応詔詩」に関して考えたことです。
第36句「指日遄征」の「指日」を、
先行する訳注では、特段の注記がないか、
あるいは「定められた期日を厳守して」のような意味で捉えています。*1
それを、文字どおり、現実に、
「太陽を目指して」と取ることはできないでしょうか。
本詩が作られた黄初四年(223)当時、
曹植が封ぜられていたのは、鄄城(山東省)、もしくは雍丘(河南省)で、*2
そこから都の洛陽に向かいつつ「日を指す」となると、
太陽は西方に懸かっていることになります。
それは、これから西の地平線に向かって落ちてゆく白日です。
曹植の詩歌には、西に傾く太陽を、時間的切迫感とともに詠ずるものが少なくありません。
『文選』所収作品では、たとえば次のような詩句を挙げることができます。
○「贈徐幹」(巻24)に、
「驚風飄白日、忽然帰西山(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、忽然として西山に帰る)」、
○「贈白馬王彪」(巻24)に、
「白日忽西匿(白日 忽として西に匿(かく)る)」、
○「箜篌引」(巻27)に、
「驚風飄白日、光景馳西流(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、光景 馳せて西に流る)」
という具合に。
そして、こうした詩想は、漢魏の作品に少なからず認められます。
たとえば、
○『文選』巻24、「贈徐幹」曹植の李善注に引く「古歩出夏門行」に、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」、
○劉向「九歎・遠逝」(『楚辞章句』巻16)に、
「日杳杳而西頽兮、路長遠而窘迫(日は杳杳として西に頽れ、路は長く遠くして窘迫す)」、
○秦嘉「贈婦詩」(『玉台新詠』巻9)に、
「曖曖白日、引曜西傾(曖曖たる白日、曜(ひかり)を引きて西に傾く)」、
○王粲「従軍詩五首」其三(『文選』巻27)に、
「白日半西山、桑梓有餘暉(白日は西の山に半ばして、桑梓には餘暉有り)」、
○曹丕「寡婦詩」(『藝文類聚』巻34)に、
「妾心感兮惆悵、白日急兮西頽(妾が心は感じて惆悵す、白日は急にして西に頽る)」
という具合に。
曹植の詠じた「指日」という詩語は、
『漢語大詞典』に挙げられた用例などを見ると、
後世、たしかに「遠からず、期日までに」といった意味を持つようになっています。
この語が次第にそうした意味を帯びて熟していったのも、
漢魏の時代、「白日」が上述のようなイメージを纏っていたからかもしれません。
ちなみに、潘岳「関中詩」(『文選』巻20)に、
曹植のこの詩句をほぼそのまま踏襲して、
「指日遄逝(日を指して遄(すみ)やかに逝く)」とあります。*3
曹植のこの表現は、当時にあっても際立って印象深いものだったのでしょう。
2022年3月1日
*1 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.77に、「日を天子または都のたとえとして用いたと考えたい。また時間の推移をあらわすものと考えることも可能だ」とあるのが他とはやや異なる解釈である。
*2 『魏志』巻19本伝には、「(黄初)四年、徙封雍丘王。其年、朝京都(これに続けて、いわゆる「上責躬応詔詩表」「責躬詩」「応詔詩」が引かれる)」と記され、これはいずれとも取り得る記し方である。このことについては、かつてこちらでも検討したが、なお未詳である。
*3 花房英樹『文選 三』(集英社・全釈漢文大系、1974年)p.70、79に指摘する。