不自然な閨怨詩
こんばんは。
授業で曹植「雑詩六首」其三(『文選』巻29)を読んでいて、
留学生たちから次のような疑問があがりました。
下に示す末尾の二句についてです。
願為南流景 願はくは南流の景と為り、
馳光見我君 光を馳せて我が君に見(まみ)えん。
ここにいう「景」は、太陽の光か、月の光か。
もし、太陽の光だとするならば、
女性を主人公とするこの詩にはそぐわないのではないか。
なぜならば、女性は、月(陰)に結び付けられるのが普通だから。
女性が自ら太陽(陽)になりたいというのは不自然だと思う。
このような内容の問題提起です。
指摘されるまで、私はこの不自然さに気づいていませんでした。
言われてみればたしかにそのとおりです。
曹植の「雑詩」は、
漢代詩歌の枠組みを用いながら、
彼自身の思いを表現しようとしているように思われます。
彼が切実に表現したかったその内容は、
前代の詩歌という依り代を必要とするものだったのでしょう。
そうしたことが、このような小さな亀裂の中に読み取れるように思います。
単なる閨怨詩を遊戯的に作ってみただけならば、
あのような不自然な表現は為されるはずがなかったでしょうから。
2022年5月31日