中島敦とカフカ
日々の慌ただしさに流されているうちに、
ずいぶん間が空きました。
さて、中島敦に関わる論文の冒頭に、*1
次のようなことが記されていて、非常に驚きました。
カフカの遺稿集『万里の長城がきずかれたとき』がベルリンで刊行されたのは1931年、
横浜で高校教師をしていた中島敦が、その英訳を手にしたのは1934~1936年頃。
同じく英訳でカフカの『城』を読みふける中島の姿を伝える友人の
ドイツ文学者氷上英廣は、当時まだカフカの名前を耳にしたことがなかった、と。
中島敦は、非常に早い時期にこの新しいドイツ文学に出会い、
たしかに、その「狼疾記」にはカフカ「巣穴」の直接的な引用が認められますし、
カフカの警句集「罪、苦痛、希望および真実の道についての考察」を途中まで訳してもいます。
中島敦がカフカの文学から相当な影響を受けていることは明白でしょう。
では、私たちはこのことをどう捉えたものでしょうか。
日本の文学には、長らく海外の文学を摂取してきた歴史があります。
国外の先進的な新潮流をいち早く取り込み、翻訳して国内の人々に紹介するという、
いわば学びの姿勢が、非常に長く続いたように看取されます。
ですが、中島敦におけるカフカ文学は、それとは異なるように思えてなりません。
啓蒙的な意味で、先進的な文学を摂取したようには思えないのです。
もしかしたら、高校教師としての日々に充足できなかった彼は、
カフカの作品と出会って、その飢渇が満たされるように感じたのかもしれません。
ここに自分と同じような不安に苛まれている人がいる、という強い共鳴。
こうしたひそやかな共感を個々人の内に呼び起すものこそが、
文学と呼びうる作品なのだと私は考えます。
中島敦にとってのカフカ作品は、
まさしくこのような意味での「文学作品」だったのではないか。
このようなことを思ったのは、
つい先ごろ、そうした視点から論文を書いたからかもしれません。*2
記憶に新しいため、つい他の文学的現象も同様な視点から見たのかもしれません。
2022年6月20日
*1 三谷研爾「ツシタラは死なず―中島敦のカフカ受容についての覚書き―」(『待兼山論叢 文学篇』37号、2003年)。
*2「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」と題して、『中国文化』80号に掲載予定。