曹植の臨淄への赴任時期(先行研究)
こんばんは。
昨日私見を述べた、曹植の封土への赴任時期について、
今のところ、多くの先行研究は黄初元年(延康元年)と見ています。
このことについて改めて確認するため、
植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」
(早稲田大学中国古典研究会『中国古典研究』21、1976年)
第二・三章を読み直しました。
植木論文は、まず論の前提として、
曹植に関わる次の三つの出来事は一連のものだとします。
1)王朝からの使者を劫脅し、このことを監国謁者に検挙される。
2)爵位を落とされて安郷侯に任命される。
3)鄄城侯に改封される。
このことについては、まったく異存ありません。
その上で、鄧永康、目加田誠の所論を紹介しつつ、
上記の一連の出来事は、黄初元年のことと推論しています。
その根拠は、主に次の二つの文献に集約されると言えそうです。
第一に、『資治通鑑』がこれらの出来事を黄初元年に繋年していること。
第二に、曹植の「上九尾狐表」(厳可均『全三国文』巻15に収載)に、
黄初元年11月23日という日付、鄄城という地名を明記して、
九尾狐という瑞祥の出現を報告し、魏王朝の成立を祝していること。
つまり、この時すでに曹植は鄄城侯であったと判断されるというわけです。
そもそも、臨淄でのふるまいが監国謁者の設けた細かい網にかかり、
それが最終的には鄄城侯への改封へとつながったのですから、
そうすると、その初め、曹植が臨淄へ赴いたのは、
黄初元年(延康元年)中、曹丕がまだ魏王であった時期、
魏の文帝としては未だ即位していなかった時期になる、という論法です。
これが、曹植自身の「責躬詩」と矛盾することは昨日述べましたが、
それとはまた別の角度からこの見解に疑義を呈するとすれば、
それは、依拠した文献の資料的価値に対してです。
『資治通鑑』が正史以外の資料を参照していても、
その成立は、三国魏の時代から軽く八百年以上は下りますから、
正史『三国志』や『文選』などを措いて『資治通鑑』に拠るのならば、
『通鑑』が拠った元資料に対する吟味が必要でしょう。
また、曹植「上九尾狐表」は、
唐代の瞿曇悉達という人の『開元占経』に収載されているもので、
厳可均『全三国文』は、それ以外の出典は挙げていません。
そして、この『開元占経』120巻は、四庫全書以外の叢書には未収録です。
そんなほとんど単線で伝わるような文献に、全面的に依拠できるものかどうか。
また、曹植が仮に黄初元年の十一月、鄄城で九尾の狐を見かけたとして、
そのことが即、曹植が鄄城侯だということを意味するかどうか。
臨淄への赴任途中、鄄城をよぎったとも考え得るでしょう。
万人が認めるような根拠を示すのは、本当に難しいことだと思います。
2022年6月23日