中島敦の葛藤

こんにちは。

中島敦とカフカとの関係について論じた先行研究から、*1
未亡人中島タカさんの文章を教えられました。

「お禮にかへて」と題するその文章に、*2
夫として、父親としての中島敦が回想されていますが、
その中に、「山月記」に関わる次のような記述が見えているのです。

 (南洋から)帰ってから、ある日、今迄自分の作品の事など一度も申したことがありませんのに、台所まで来て、
「人間が虎になった小説を書いたよ。」
と申しました。その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。
 好きな本も、芝居も、見ることが出来なくなり、書くことも出来なくなると、
「書きたい、書きたい。」
と涙をためて申しました。
「もう一冊書いて、筆一本持って、旅に出て、参考書も何も無しで、書きたい。」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」
とも申しました。

「山月記」を書いたことを、なぜ妻のタカさんに言ったのか。
なぜ「その時の顔は何か切なそう」だったのか。

「山月記」のもとになった「人虎伝」では、
虎になった李徴が、たまたま再会した旧友の袁傪に、
まず妻子の世話を依頼し、その後に、自作の詩を託します。

一方、「山月記」では、
まず自作の詩を託し、その後に妻子の世話を依頼します。
そして、この順番が転倒したということを、李徴はひどく自嘲するのです。

この改変は、中島敦自身の中から出てきたものです。

彼は、「人虎伝」に触発されて小説を書きながら、
小説家たらんとする自身の欲望があぶり出されたことを自覚し、
そのことを、まるで妻子を打ち捨てる者のように感じたかのもしれません。
それは、実際には非常に愛情深い夫・父であった彼には酷くこたえることだったでしょう。

一方、残された時間があまり長くはないことを予感していた彼には、
全精力を書くことに注ぎ込みたいという欲望を直視しないではいられなかったでしょう。

この二つの情況に引き裂かれていた彼のことを思うと、心が締め付けられます。

2022年6月30日

*1 有村隆広「日本における初期のカフカの影響―第二次世界大戦前後」(『Comparatio』18号、2014年)
*2 「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」(文治堂書店、1972年)所収