中島敦の葛藤(追記)
おはようございます。
昨日こちらに記したことについての追記です。
先行研究に導かれて原典に当たる中で、*1
実は、妙に引っ掛かるところが一か所あったのでした。
それは、中島敦が妻のタカに「山月記」を書いたことを告げた時期です。
引用文「帰ってから」の前に(南洋から)と入れたのは、このことの覚書きです。
勝又浩「中島敦年譜」にも示されているとおり、*2
中島敦が深田久彌に、「山月記」を含む「古譚」六篇を託したのは、*3
中島が南洋庁に赴く前(1941年6月以前)のことです。
けれども、前掲の中島タカ「お禮にかへて」では、
それが、南洋から東京へ戻ってからのこととして記されていました。
「山月記」を書いた時期と、
そのことを妻に伝えた時期との間には、足掛け二年の隔たりがあるのです。
(「山月記」が『文学界』に掲載されたのは南洋から帰京後です。)
そうすると、妻のタカにこの小説を書いたことを告げたのは、
自身の内にある、全力を尽くして書きたいという作家としての欲望を、
(それを申し訳なく思う気持ちを引きずりながら)妻に打ち明ける、
ということだったのではないかと考え直しました。
「その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。
あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。」
というタカの言葉からは、
彼女もまた、中島の思いをわかっていたように感じられてなりません。
「……それに中島の文章をお忘れなく何時までも愛し下さる読者の皆様に、
一言でもお礼を申しのべたく存じ、恥しさをしのび愚かなことを申し上げます。」
中島タカさんは、文章の初めにこのように記していらっしゃいます。
このような方だったのだと感じ入ります。
2022年7月1日
*1 中島タカ「お禮にかへて」(「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」文治堂書店、1972年)。
*2『中島敦全集3』(ちくま文庫、1993年第一刷、2007年第七刷)所収を参照。
*3 深田久彌「中島敦君の作品」(「ツシタラ第二輯(中島敦全集月報2)」、文治堂書店、1971年)を参照。
※弊学(県立広島大学:旧広島女子大学)図書館が、文治堂書店刊『中島敦全集』の月報を、丁寧に冊子として保存してくれていてとても助かりました。こうした資料は、新しい『中島敦全集(全3巻別巻1セット)』(筑摩書房、2001年)にはもちろん収録されているでしょう(?)。すぐに図書館に入れる手配をしました。