平賀周蔵『白山集』の序文

こんにちは。

9月の公開講座に向けての準備の一環として、
皆川淇園(名は愿)による平賀周蔵『白山集』の序文を読みました。
平賀周蔵の閲歴を概略知ることができた一方で、少し理解の及ばない部分も残りました。
ここに訓み下しを示し、疑問点を記しておきたいと思います。
内閣文庫所蔵本を翻刻した本文、及び訓み下し文は、別にこちらに上げておきます。)

安芸の国の医者、笠坊文珉は、自分と旧知の間柄である。ある日、詩集一冊を懐に入れてやってきて、これを取り出して私に見せて言った。「これは友人の平賀周蔵、字は子英、号は蕉斎という者が作った詩集です。周蔵は私に預けて、先生にこの序文を書いていただけるよう依頼してきた次第です。」そして、彼はまた子英が私に宛てて書いた手紙を取り出した。これを読んだところ、概ね、その詩集を出版すること、及び私の序文を求める旨が述べられていた。曰く、自分は幼少の頃より藝藩の大夫浅野子敦君に仕えてきた。おそらく自分は幼少の頃から学問好きであったためか、十歳になると、子敦君より特別に俸禄を賜り、広く学ぶよう命ぜられた。二十歳になると、子敦君に従って江戸へゆき、服部仲英について詩作を学んだ。仲英が亡くなった後は、詩を通しての交友関係はますます広がり、たとえば京の都の竜君玉(竜草廬)・江君綬(江村北海)といった人々とも広く交わりを結んだ。四十七歳で退職し、自ら白山居士と号した。今は五十歳になる。その初め、子敦君は物茂卿(荻生徂徠)の文章を読んで、そこに書いてあった「仕事が多くて学問ができないのは運命である。貧しくて書物が入手できないのは運命である。能力があって、人に学問をさせることができるならば、それは自身が学ばなくとも、ほとんど学ぶことに等しい」という言葉に感激したことがあって、子英を観察するに、幼い時から学問好きであった、というわけで、これに優先的に学資を給付しようということになったのである。そして、今、作った諸々の詩型の作品あわせて六百首を集めて五巻とし、これを出版して世に公開するに当たり、聊かなりともその文芸が成就したところを示すことによって、主人が私を理解し、支援してくださった、その御恩の万の一つにでも報いたいと願っている。もし序文を書いていただけるなら、どうか今述べたことを書き入れていただけないか、と。私はそこでまたその詩集を閲読するに、その詩は構想が清新で、表現は非常に練り上げられており、今の世で詩人としてもてはやされている者たちも、この詩集をよく読めば、自らを恥じる表情を浮かべるかもしれない。まさに、この詩集が世の中に伝播し、後世にまで広く伝えられることは必定である。そもそも子敦君が聡明で人を見る目があり、よく子英の学資の支援をしたこと、及び子英が明敏でよく学問に励み、以て自身の才能を成就させたこととは、真にこの二人を共に善しと称賛せずにおれようか。かくして、巻頭にその序文を書いて、これを文珉に託して持ってゆかせた。そしてその翌日、子英がやってきて私に面会し、その序文を書いたことに対する謝辞を述べ、かつまたこのように求めてきた。「今、先生にお会いすることができまして、先生の書いてくださった序文が未だ謁見が叶わなかった時と違いが無いようでは、少しばかり残念な心地がいたします。どうかこの序文を書き直してはいただけないものでしょうか。」そもそも、私の卑しく劣った人品を以てしては、その識語があろうがなかろうが、それが子英の評価の高下に影響を及ぼすには至るまい。とはいえ、彼の懇願が非常にねんごろであったため、更にこのことを書き加えて、これを子英に贈ったのである。
寛政六年(1794)冬十月
   京都の皆川愿が撰し并びに書す

この序文の大部分は、平賀周蔵が皆川淇園に当てて書いた書簡の引用です。
ただ、その中に「子敦君」「子英」等々といった言い方が出てきて、
これは、平賀周蔵が自身で書いた文面を、皆川淇園がアレンジしたものでしょう。
ですから、「曰く」以下を間接話法的に訳しました。

よくわからなかったのは、なぜ平賀周蔵は、翌日皆川淇園を直接訪ね、
序文の書き直しを懇願したのかということです。

その懇願の内容は、この通釈のとおりでよいのでしょうか。
翻刻あるいは翻訳を誤ったために、自ら理解できないのでしょうか。

更に、追記された部分というのは、どこからでしょうか。
普通に考えれば、周蔵の来訪とその懇願を記した部分なのでしょうが、
これを記すことで、却って著者の格を落とすことになりはしなかったのでしょうか。

また、京都の人である皆川淇園を、平賀周蔵は翌日すぐに訪ねています。
ということは、この時ちょうど皆川淇園は広島近辺にやってきていたのでしょうか。

2022年8月4日