自身の座標の相対化
こんにちは。
岡村繁「駢文」という概説的な論文があります。*
貴族が社会の主導権を握った六朝時代の産物、四六駢儷文について、
具体例に拠りつつ、この文体の本質が、実に分かりやすく説明されています。
(分かりやすくても、内容は一切薄められていません。)
四字句・対句を基本に、韻律美に配慮し、典故表現を多用する駢文は、
当時の貴族たちにとっては一般的な実用文でした。
けれども、このような駢文は、現代において、
自身の知識をひけらかす、知的俗物の文体であるかのように言われがちです。
(駢文も、古文も、白話による俗文学も、近代以降の文学も、
本来、それぞれの時代の人々に応じた文体であって、その間に優劣はないはずですが。)
この見方は、今自分が立脚しているところから過去を断ずるものです。
自身が依拠するのとは別の座標が存在するということに思い至っていないのです。
(だから、私は古人の作品に対して“評価”ということをしたくありません。)
つい自身が身を置く座標軸に拠ってものを考えてしまう、
誰もが持つこの盲点に対して、岡村先生は鋭敏な感覚をお持ちだったように感じられます。
だから、私たち学生は、実にフラットな雰囲気のもと伸び伸びと学ぶことができた。
当時はそれを当たり前のことのように享受していたのですが、
(最初に、学問とは自由なものだと体感できたことはたいへんな幸運でした。)
おそらくそれは、先生ご自身が様々な体験の中から獲得された価値観を、
努力して具現化されたものであったのだろうと思います。
そのことを時々思い起こします。
2022年9月9日
*『文学概論(中国文化叢書4)』(大修館書店、1967年)p.120─133。