黄初二年の曹植(三たび)

こんにちは。

黄初二年、臨淄侯の曹植は、
監国謁者潅均に摘発されて罪を得ましたが、
同母兄の文帝曹丕の取り計らいにより、
まずは安郷侯への貶謫、続いて鄄城侯に遷されることで済みました。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝)

刑罰を軽減されて安郷侯に遷されることになった、
その文帝の計らいに対する感謝を表するのが、
「謝初封安郷侯表」(『曹集詮評』巻7、『藝文類聚』巻51)です。

背景となった経緯はある程度わかっているので、
比較的スムーズに訳注作業が進むかと思っていたところ、
いきなり躓いてしまいました。

それは、冒頭にいう「臣抱罪即道」です。
「罪」はわかります。では「即道」とは何でしょう。

当初、私はこのように捉えていました。
洛陽に出頭して罪状が定まり、臨淄へと戻る帰途に就いたのだろう、と。
曹植に具体的な処罰の内容が申し渡されたのは都の洛陽で、
そこから一旦、臨淄へ戻ることとなったのだろう、
その帰りの途中で、安郷侯への転封が告げられたのだろう、
と、何となく思い込んでいたのでした。

けれど、この捉え方は誤っているのではないか。
そのことを示唆してくれたのは、李善の『文選注』です。
巻20の曹植「上責躬応詔詩表」の李善注に引く『曹(植)集』に、

植抱罪、徙居京都、後帰本国。
 植は罪を抱きて、居を京都に徙し、後に本国(鄄城)に帰る。

また、同巻20の曹植「責躬詩」の李善注に『(曹)植集』を引いて、

求出猟表曰、臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮。
 出猟を求むる表に曰く、
 「臣は自ら罪舋を招き、居を京師に徙して、罪を南宮に待つ」と。

とあり、これらによれば、処罰は都の洛陽で執行されるのであったようです。

他方、「責躬詩」本文にこうありました。

明明天子  聡明なる天子は、
時惟篤類  身内の者に手厚く対処しようと思われた。
不忍我刑  わたくしを処罰して、
暴之朝肆  その身を朝廷や市場に晒すには忍びなかったのである。

ここから推し測るに、
曹植は、都の雑踏の中に罪人としての身を晒さずに済んだ、
(安郷侯、次いで鄄城侯への転封に振り替えられたことによって)
と見ることが十分に可能です。

「謝初封安郷侯表」の冒頭、
「即道」とは、上京の旅路に就いたのだと捉え直します。
結局、黄初二年時点での曹植は、洛陽には至っていないと思われます。

(たったこれだけのことにほとんど半日かかってしまいました。)

2022年10月6日