追記:柏村直條と厳島八景

昨日の続きです。)
柏村直樹先生にいただいた『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』により、*1
柏村直條こそが厳島八景成立の立役者であったことを、
はっきりと確認できる事柄が二三ありました。
以下、拙論への追補として記します。*2

それは、まず風早公長との関係です。
拙論では、公長の「八景和歌跋」(『厳島八景』上巻)にいう、

頃日有僧恕信者、来請遺佳景於篇詠
(先頃、恕信なる僧が、そのすばらしい景色を歌に詠じてほしいと依頼してきた。)

といった表現から、
恕信と風早公長とはそれほど親しい間柄ではないだろう、
柏村直條が言及されていないのは、むしろ両者の関係の気安さ故であろう、
ということを推し測るところまでで終わりました。

ところが、上記の資料『翻刻柏亭日記』を見ると、
柏村直條は、父の直能の代から、風早家と付き合いがあることが確認できました。
風早公長の名が『日記』に登場するのは、巻の一、元禄九年(1696)八月十五日ですが、
それ以前、二十代の頃にも、父の育てた牡丹の切り花を風早家に届けたり、
その数年後、風早公長が放生会の勤仕からの帰途、直條宅を訪れたりしていることが、
本資料所収の安立俊夫氏による「柏村直條の説明と略年譜」から知られました。
二人の生没年は、直條(1661―1740)、公長(1665―1723)で、わずか四歳差です。
身分は異なってはいても、ほとんど幼馴染といってよい間柄であったと想像されます。

次には、直條と里村家との関係です。
拙論では、たとえば里村昌純の「厳島八景発句」の序にいう、
「彼島の光明院恕信といへる大徳」等々の表現から、
里村家は、恕信とは少し距離のある間柄であろうということを推測し、
他方、里村家と柏村家とは「厳島八景発句」以前にも連歌の会を催していることから、
直條と里村家とは旧知の間柄であったのだろうと推測したところまででした。

ところが、前掲「柏村直條の説明と略年譜」によると、
直條の妹の真(さな)は、里村昌純(1649―1723)に嫁しています。
姻戚関係という非常に親密な間柄であったことを知りました。

柏村直條という人は、実に様々な人々と交友関係を持っていて、
その信頼関係があればこそ、厳島八景の成立も実現したのだと確信しました。

2023年11月28日

*1『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』古文書の会八幡編集・発行、2013年輪読開始、2017年輪読終了、2018年発行。
*2「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)。