同時代人の捉えた語意
曹植集に紛れ込んだ古楽府「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の、
第一句「来日大難」にいう「来日」について、
『漢語大詞典』(1冊目/p.1298)は、
この「善哉行」を挙げて、〈往日、過去的日子〉と説明しています。
この解釈の直接的な根拠となったのは、
続けて引かれる李白「来日大難」(『李太白文集』巻5)に、
清の王琦(四部備要『李太白全集』巻5)がこう注していることでしょう。*
来日、謂已来之日、猶往日也。
来日とは、已に来たるの日を謂ひ、猶ほ往日のごときなり。
李白の本作品は以下のとおり、明らかに古辞「善哉行」を踏まえています。
そして、その内容はたしかに王琦の説くとおり、過去を指して言うように読めます。
来日一身 携糧負薪 来日 一身、糧を携へ 薪を負ふ。
道長食尽 苦口焦唇 道は長く食は尽き、口 苦(にが)く 唇 焦げたり。
今日酔飽 楽過千春 今日 酔飽、楽しみは千春を過ぐ。
仙人相存 誘我遠学 仙人 相存して、我を誘ひて遠く〈仙術を〉学ばしめんとす。
……
ですが、古楽府「善哉行」の「来日」を、
『漢語大詞典』に従って、本当に過ぎ去った日々と解釈してよいでしょうか。
というのは、晋楽所奏の古辞「善哉行」を耳にしたに違いない陸機が、
その「短歌行」(『文選』巻28)の中で、次のような対句を提示しているからです。
来日苦短 去日苦長 来たる日 苦(はなは)だ短く、去る日 苦だ長し。
今我不楽 蟋蟀在房 今 我 楽しまずんば、蟋蟀 房に在らん。
ここに見えている「来日」は、「去日」と対句である以上、
これから自分に訪れるであろう日々を指して言っていることは確実です。
『漢語大詞典』も、これを挙げて〈未来的日子〉と解しています。
なお、陸機の前掲句の、特に一句目が、
曹植「当来日大難(「来日大難」に当つ)」にいう
「日苦短、楽有餘(日は苦だ短く、楽には餘り有り)」を踏まえていることは、
『文選』李善注も指摘しているとおりです。*
李白(701―762)と陸機(261―303)とは、生きた時代が遠く隔たっています。
西晋王朝の宮中で歌われた古楽府「善哉行」にいう「来日」の意味は、
その歌曲が流れる空気の中にいた、同時代人の陸機の方が、
より的確に捉えていると見てよいだろうと思います。
2024年2月14日
*ただし、現行の李善注は、「曹植苦短篇曰、苦楽有餘(曹植の「苦短篇」に曰く、「苦楽 餘り有り」と)」とあって、楽府題からして現存作品とは異なっている。