「棄婦篇」の分かり難さ(承前2)

昨日の続きです。語釈等の詳細はこちらをご覧ください。)

曹植「棄婦篇」の後半は、
夫に棄てられた女性の悲しみというテーマを外れ、
君主を求めながら得られない士人の煩悶を詠じているようにも読めます。
(「憂懐従中来」を、そうした士人に対する詩人の憂慮としたのは保留ですが。)

以上のことを一応視野に入れた上で、更に本詩の不明点を挙げていくと、

まず、最後の方に出てくる「神霊」と、初めの方に見える「淑霊」とは、
同一のもの、すなわち石榴に集った鳥を指すのかどうか。
そう捉える注釈者も少なからずいますが、*1
「神霊」の方がより高い次元の存在のようでもあります。

ただ、この詩は前半と後半とで同じような言葉を用いており、
それは意図的に構えられた表現であるように見えます。
前半にある「撫心長歎息」と、
後半にある「収涙長歎息」とはその最たるものです。
すると、「神霊」と「淑霊」とは同一のものを指すと見た方がよいでしょうか。

次には、最後に見える「招揺」は、桂の樹なのか、星なのかという問題。
中国の注釈者が多くこれを桂の別名と捉える一方、
伊藤正文氏はこの説を取らず、北斗七星の第七星と解釈しています。*2
どちらの説を取ったとしても、不自然な感じが否めません。
もし、これが桂であるならば、詩の冒頭に挙げられた石榴はどうなるのでしょう。
最後になって唐突に別の樹木に切り替わるのは、奇妙な感じがします。
他方、これが星ならば、それはいつも空に懸かっており、
季節ごとに、それが指し示す方向を変えていくだけなのですから、
「待霜露」という語との組み合わせがしっくりこないように感じられます。

更に、最後の句「願君且安寧」は、
誰が誰に向かって投げかけた言葉なのでしょうか。
多くの注釈者は「君」を、この女性の元夫を指すと捉えています。
けれども、この夫は、彼女に子が生まれないという理由で離縁した男です。
それをきれいに忘れ去って、相手にこんな言葉を送るのが「棄婦」だとしたら、
それはあまりにも不自然に作り上げられた女性だと言わざるを得ません。
そうすると、詩人は現実の「棄婦」を詠じようとしたのではなく、
その題材に、自身の関心事が引き出されたということなのかもしれません。

こうして分からないことを書き出しておけば、
そのうちいつか、焦点が合って不明点が霧消するかもしれません。

2024年7月25日

*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)p.59、余冠英『三曹詩選(中国古典文学読本叢書)』(人民文学出版社、1985年)p.102、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.283を参照。
*2 伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.116―117を参照。