曹植「精微篇」と漢代宴席文芸
一昨日、「曹植作品訳注稿」の「05-43 精微篇(鼙舞歌4)」を公開しました。
この作品は、漢代「鼙舞歌」五篇の「関東有賢女」に当てて作られたと、
『宋書』巻22・楽志四に記されています。
本作品を通して、曹植が最も言いたかったのは冒頭八句でしょう。*1
そのために、いわば材料として用いられたのが第9句から第56句に至る部分で、
その冒頭に置かれたのが、漢代「鼙舞歌」の題名をまるごと用いた「関東有賢女」です。
「鼙舞歌」は、発祥は不明ですが、
漢代にはすでに宴席文芸として行われていたといいます(『宋書』楽志一)。
その漢代の宴席を彩った文芸の一端として、
曹植「精微篇」の中盤を占める四つの故事を見ることができます。
それは、宗家の仇討を敢行した女性たち、父の窮地を救った娘たちを歌い上げるもので、
男尊女卑、親と子、長幼の序といった、儒教社会を成り立たせている規範を、
豪快にひっくりかえす要素がふんだんに盛り込まれています。
おそらく、曹植にはそのような痛快な女性たちを称揚する意図はなく、
彼女たちの物語は、漢代「鼙舞歌」の内容をそのまま踏襲する部分であったでしょう。
曹植は当時、自身の思いを自由に表現することが困難な状況にありました。
そのため、前代の歌謡を引き写しにして身を守る必要があったと推し測られます。
それが結果として、漢代「鼙舞歌」復元の手がかりを残してくれることになりました。*2
曹植「鼙舞歌・精微篇」を織物にたとえて見てみると、
その文様としては、自身の境遇に奇跡が起こることへの希求が、
その地の部分には、漢代宴席で上演されていた勇敢な女性たちの物語が、
それぞれに浮かび上がってくるようです。
その見え方は、どこにピントを合わせるかによって変わってくるように思います。
作者の意図を探るのは、織物の文様に注目することに当たるでしょう。
当時の一般的な人々の感情を探るには、地の部分に着目することから着手できそうです。
2024年11月28日
*1 林香奈「曹植「鼙舞歌」小考」(『日本中国学会創立五十年記念論文集』1998年、汲古書院)に指摘する。
*2 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。