左延年「秦女休行」と漢代宴席文芸

曹植「精微篇」にも登場した女性「秦女休」については、
魏の左延年にも、「秦女休行」と題する次のような楽府詩があります。
今、『楽府詩集』巻61所収の本作品を、私訳とともに示せば次のとおりです。

01 始出上西門   始めて上西門を出たところで、
02 遥望秦氏廬   遥か彼方に秦氏の家を眺めやる。
03 秦氏有好女   秦氏によき娘がいて、
04 自名為女休   彼女は自ら女休と名乗っている。
05 休年十四五   休は年のころ十四五歳で、
06 為宗行報讎   宗家のために仇討をした。
07 左執白楊刃   左手に白楊の刃を握り、
08 右拠宛魯矛   右手に宛魯の矛を押さえて。
09 讎家便東南   仇は東南に身を寄せ、
10 仆僵秦女休   秦女休を倒そうとする。
11 女休西上山   女休は西のかた山に上り、
12 上山四五里   山に上ること四五里。
13 関吏呵問女休  関所の番人が 厳しく女休を問い質せば、
14 女休前置辞   女休は前に進み出て返答する。
15 平生為燕王婦  「その昔は燕王の妻でしたが、
16 於今為詔獄囚   今は詔によって投獄された囚人です。
17 平生衣参差    昔はあれこれと様々に着飾っておりましたが、
18 当今無襟襦    今は襟も襦袢もない有様です。
19 明知殺人当死   人様を殺すことが死罪に当たることは十分に承知しております。
20 兄言怏怏     兄は、鬱々と楽しまないことを言いますが、
21 弟言無道憂    妹(自身)は、泣き言を口にはいたしません。」
22 女休堅辞     女休は堅く心に決めた言葉を述べる。
23 為宗報讎     「宗家のために仇討をし、
24 死不疑       死ぬことは覚悟しております。
25 殺人都市中     人を大都会の真ん中で殺したのですから、
26 徼我都巷西     わたしを街角の西に捕らえてください。」
27 丞卿羅東向坐   役人たちは居並んで東に向かって坐り、
28 女休悽悽曳梏前  女休は痛々しい有様で桎梏を引きずって進み出る。
29 両徒夾我     二人の人夫がわたしを両方から抑え込み、
30 持刀刀五尺餘   刀を持つ、刀は五尺餘り。
31 刀未下      刀がまだ振り下ろされていないとき、
32 朣朧撃鼓赦書下  ドウドウと太鼓を打つ音が響き渡り、恩赦の勅書が下された。

さて、本作品の中には、漢代宴席文芸との繋がりを想起させる表現が散見します。

1・2句目の歌い出しは、古詩の流れを引く作品にはよく見かけるもので、
たとえば、『文選』巻29「古詩十九首」其十三の冒頭、
「駆車上東門、遥望郭北墓(車を駆る上東門、遥かに郭北の墓を望む)」が挙げられます。
ちなみに、上東門も、左延年が詠じた上西門も、後漢の都洛陽に実在していました。

7・8句目の、左手右手のそれぞれに持つものを取り上げていう表現は、
『史記』刺客列伝(荊軻)に、荊軻が樊於期将軍の首を要求していう誓いの科白、
「臣左手把其袖、右手揕其匈(臣は左手に其の袖を把り、右手に其の匈を揕さん)」、
そして、秦王への謁見が叶った荊軻が、
果たしてその約束どおり、開かれた地図の中から現れた匕首で、
「左手把秦王之袖、而右手持匕首揕之
(左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す)」
と記されていたことを思わず想起します。

17・18句目に見える、今と昔とを対比させる発想は、
古詩系統の詩歌には割合よく認められるもので、
より原初的な作品から例を挙げれば、*1
『文選』巻29「古詩十九首」其二にいう、
「昔為倡家女、今為蕩子婦(昔は倡家の女為り、今は蕩子の婦為り)」があります。

また、27句目の動作を言い表す表現は、
『史記』項羽本紀に見える、人物たちの動作を記す次のような記述、
「項王項伯、東嚮坐、亜父南嚮坐。亜父者、范増也。沛公北嚮坐、張良西嚮侍
(項王・項伯は、東に嚮かひて坐し、亜父は南に嚮かひて坐す。亜父なる者は、范増なり。
沛公は北に嚮かひて坐し、張良は西に嚮かひて侍る)」に似ています。

30句目の、短い言葉を畳みかけるような表現は、
『史記』刺客列伝(荊軻)の切迫した場面に認められる次のような記述、
「抜剣、剣長、操其室(剣を抜く、剣長し、其の室を操る)」に通ずるものがあります。*2

このように、左延年「秦女休行」は、漢代宴席文芸との共通項を多く持っています。
すると、この楽府詩が漢魏の宴席で楽しまれていたことはほぼ確実と見てよいでしょう。
楽府詩がそのような性格を持つことはもはや常識ではありますが。

なお、今ここに提示した古詩や『史記』所載の歴史故事は、
漢代の宴席という場で、詠じられたり、演じられたりしていた文芸であって、
両者が宴席で出会って誕生したのが、詠史詩という新ジャンルであったと考えられます。*3

2024年11月30日

*1 数ある古詩の中から、より古層に属するものを抽出し得ることについては、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の、特に第二章第一節を参照されたい。
*2 『史記』の記述の中に認められる通俗的口承文芸の片鱗については、宮崎市定「身振りと文学―史記成立についての一試論―」(『宮崎市定全集5』岩波書店、1991年。初出は『中国文学報』第20冊、1965年4月)を参照。
*3 拙稿「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)を参照されたい。