曹植「霊芝篇」の原資料(見通し)

曹植の「鼙舞歌・霊芝篇」には、
親孝行で知られる人物たちが列挙されています。
その最初に詠じられているのは五帝のひとりである舜で、
本詩中に「尽孝於田隴(孝を田隴に尽くす」という句が見えています。

舜が歴山で耕作に従事していたことについては、
「中國哲學書電子化計劃」https://ctext.org/pre-qin-and-han/zhで検索すると、
実に多くの文献にこのことが言及されているのを概観できます。*1

ところが、その農作業が「孝」と結びつけられている例は多くありません。
上記のサイトでの検索結果をすべて挙げれば、次の三例のみです。

『列女伝』賢明伝「周南之妻」には、この女性の科白の中にこうあります。

「昔舜耕於歷山、……。非舜之事,而舜為之者,為養父母也。」
(昔 舜は歷山に耕し、……。舜の事に非ず、而して舜之を為すは、父母を養ふ為なり。)

『焦氏易林』観之、観(観 観に之く)には、次の句が見えています。

「歷山之下、虞舜所処。躬耕致孝、名聞四海。
(歷山の下、虞舜の処る所なり。躬(みづか)ら耕して孝を致し、名は四海に聞こゆ。)

逆に、『越絶書』呉内伝は、舜が継母の殺意から逃れたことについて、

「舜去、耕歷山。三年大熟、身自外養、父母皆饑。
(舜は去りて、歷山に耕す。三年にして大いに熟し、身自(みづか)ら外に養ひ、父母は皆饑う。)

と記し、これを「舜に不孝の行ひ有り」としています。

なお、武梁祠の画像石に彫り込まれた榜題にはこうあります。*2

帝舜名重華、耕於歴山、外養三年。
帝舜 名は重華、歴山に耕し、外に養はるること三年なり。

「外養」「三年」という語が、
『越絶書』呉内伝に共通している点で注目されます。

曹植「霊芝篇」の原資料は、
上述のような文献や画像石から探っていけるかもしれません。

2024年12月4日

*1 たとえば、『説苑』雑言、同反質、『韓詩外伝』巻七、『新序』雑事、『論衡』自紀、『墨子』尚賢中、同尚賢下、『韓非子』難一、『管子』版法解、『呂氏春秋』孝行覧・慎人、『史記』五帝本紀、『越絶書』外伝枕中、『塩鉄論』貧富に見えている。
*2 『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.66を参照。