曹植「霊芝篇」の原資料(承前)

曹植「霊芝篇」に登場する孝行息子の舜について、
孝の要素が農耕とあわせて記述される例はそれほど多くありません。

その数少ない例として、昨日『焦氏易林』と『列女伝』とを挙げました。
この両文献の関係について、思い至ったことを記しておきます。

『焦氏易林』の著者である焦延寿は、前漢中期の人で、
『漢書』巻88・儒林伝には、その易学について次のように記されています。

京房受易梁人焦延寿。延寿云嘗従孟喜問易。
会喜死、房以為延寿易即孟氏学、翟牧・白生不肯、皆曰非也。
至成帝時、劉向校書、考易説、以為諸易家説……大誼略同、唯京氏為異、
党(儻)焦延寿独得隠士之説、託之孟氏、不相与同。

京房 易を梁人焦延寿に受く。延寿云ふ「嘗て孟喜に従ひて易を問ふ」と。
会(たまたま)喜死し、房は以て延寿の易は即ち孟氏の学なりと為すも、
翟牧・白生は肯んぜず、皆曰く非なりと。
成帝の時に至りて、劉向は書を校し、易の説を考ずるに、
以為らく 諸の易家の説……大誼は略(ほぼ)同じきも、唯だ京氏のみ異と為す、
もし焦延寿 独り隠士の説を得て、之を孟氏に託せば、相与に同じからず。

これによると、焦延寿の易学は諸家と比べてかなり特異なもので、
「隠士の説を得て」成った可能性もあると、劉向に指摘されていたようです。
「隠士」とは、在野に埋もれて生きる知識人、という意味で捉えることができるでしょう。
もしそうであるならば、その『焦氏易林』の記述の中には、
民間に流布する言い伝えなどがふんだんに含まれているかもしれません。
(先行研究の中には、すでにこうした視角から論じたものがあるかもしれません。)

他方、『列女伝』賢明伝「周南之妻」に見えていた孝子舜の故事は、
この「周南の妻」が語った言葉の中に登場するものでした。
つまり、この時点で、この話はすでに世間に流布していたということになります。
劉向が『列女伝』を編纂した際、この部分に手を加えたという可能性も否定できませんが、
他の見方として、前漢末まで伝えられてきた彼女の故事の中に、
舜が農耕によって親に孝養を尽くしたという故事がすでに埋め込まれていた、
と見ることも不可能ではありません。

前漢の『焦氏易林』と『列女伝』という両文献の中に、
そろってこの故事が援用されていることについて、
どちらかがどちらかを継承したという関係を想定することよりも、
両文献の成立の根底に、広く世の中で共有されていた言い伝えを想定した方が、
実態に近い、より明瞭な像を結ぶように感じられます。

ところで、曹植「霊芝篇」は、
ここまで検討してきた「尽孝於田隴」という句の前後に、
「父母頑且嚚(父母は頑にして且つ嚚なり)」、
「烝烝不違仁(烝烝として仁に違はず)」といった句を配しています。
前者は、『尚書』堯典の記述に基づく表現ですし、
後者の「烝烝」「不違仁」は、『尚書』堯典、『論語』雍也に見える語です。
そうした古典籍に由来する辞句の間に、
民間伝承由来かと思われる故事が織り交ぜられている。
曹植文学を文化史上に位置づける上で、このことに興味が引かれます。

2024年12月5日