民間説話における「母」への傾き
孝行息子たちの故事は、
『法苑珠林』巻49・忠孝篇に、感応縁として十五験が引かれています。*1
その中には、曹植「鼙舞歌・霊芝篇」にも言及されていた
舜、丁蘭、董永、伯瑜の記事も見えています。
このうち、意表を突かれたのが丁蘭の故事です。
晋の孫盛『逸人伝』(『初学記』巻17)をはじめとして、
丁蘭は、父母を失い、木で親の像を作ってこれに仕えたとされています。
ところが、『法苑珠林』に記されているところでは、
「年十五喪母、刻木作母事之、供養如生」となっています。
木に彫られ孝養を尽くされるのは、両親ではなく、母親のみなのです。
これに続く記述も、前掲の『逸人伝』とはまるで違っています。
孝子丁蘭は、後漢の武梁祠画像石にも刻まれていますが、
その銘には「丁蘭二親終歿、立木為父、隣人假物、報乃借与」とあって、
木彫りの像がつくられたのは、父親のみと記されています。*2
これを見て想起させられたのが、過日言及した董永の故事です。
劉向『孝子図』や曹植「霊芝篇」では、彼が我が身を売って葬ったのは父でしたが、
敦煌文献では、それが父母となっていたのでした。
漠然とした感触ですが、
民間文芸の中枢に近づくほど、「母」の存在が大きくなっていくようです。
曹植「鼙舞歌・精微篇」などでも詠じられていた、
父親を窮地から救い出す勇敢な娘たちの物語も併せて想起されます。*3
時代が下るにつれ、母が父に替わってその存在感を増していくのか、
それとも、もともと民間では母なる存在が大きかったところ、
知識人の手に成る文献では、儒教的規範により父が重んぜられて記されたのか、
今は結論を急ぐことはしないでおこうと思います。
2024年12月16日
*1 この資料のあることは、金岡照光「敦煌本「董永伝」試探」(『東洋大学紀要 文学部篇』第20号、1966年)によって教えられた。
*2 長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.77、張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.124を参照。
*3 下見隆雄『儒教社会と母性―母性の威力の観点でみる漢魏晋中国女性史』(研文出版、1994年)第八章は、彼女たちの言動を母性発揮という視点から捉える。