曹植「鼙舞歌」と漢代「鼙舞歌」

曹植「鼙舞歌」は、基本的に漢代「鼙舞歌」を襲うものだと考えます。
ただ、五篇の全てが本当にそうだと言えるのかと問われれば、
躊躇するところも正直ありました。

漢代の「章和二年中」に当てられた「聖皇篇」はほぼ確実にそう言えます。*
同じく漢代「鼙舞歌」の「関東有賢女」に当てられた「精微篇」も、
その内に「関東有賢女」という句をそのまま含んでおり、
その関東の賢女と同類の故事が本詩中に列挙されていることから、
「精微篇」が「関東有賢女」を踏襲していることはほぼ確実と見てよいでしょう。
では、それ以外はどうでしょうか。

本日、上記の二篇に加えて「霊芝篇」もまた、
漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」を踏襲するという見通しを得ました。

きっかけは、孝子故事が列挙される「霊芝篇」の中に、
次のような辞句が見えていたことです。

蓼莪誰所興  「蓼莪」は、誰がこれを暗喩で詠じたのか、
念之令人老  この詩を繰り返し思えば、私はすっかり老け込んでしまう。
退詠南風詩  退居して南風の詩を詠ずれば、
灑涙満褘抱  流れる涙がひざ掛けに満ちる。

「蓼莪」は、『詩経』小雅の中の一篇で、
その小序には、「孝子は養を終ふるを得ざるのみ」という状況になるまで、
民人たちを疲弊させている幽王を非難する詩だと解説されています。

「南風詩」とは、『詩経』邶風「凱風」を指していい、
その小序には、「凱風」は孝子を賛美する詩だと、その主題が示されています。

この二篇の詩が、孝子を列挙する「霊芝篇」に登場するのはごく自然ですが、
それらを併せて用いている例が、『後漢書』巻55・章帝八王伝(清河孝王慶)に引く、
和帝(在位88―105)の詔の中にも次のように見えていたのです。

諸王幼稚、早離顧復、弱冠相育、常有蓼莪、凱風之哀。
 諸王(和帝の兄弟たち)は幼い頃に父母の手から引き離され、
 成人後は自分(和帝)が面倒をみているが、
 彼らはいつも「蓼莪」や「凱風」の悲哀を抱いている。

『後漢書』本伝によると、
清河王劉慶は、理不尽な死を遂げた母親を終生思い続けました。
もしかしたら、曹植「霊芝篇」が拠った漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
こうした史実や前掲の和帝の詔とつながりを持っていて、
そのために、歌辞中に「蓼莪」「凱風」を含んでいたのではないか。
ならば、孝子故事を列挙して詠ずる曹植「霊芝篇」もまた、
漢代「鼙舞歌」を忠実になぞっていることになります。

2024年12月17日

*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。