曹植「聖皇篇」札記1

昨日、曹植「聖皇篇(鼙舞歌1)」の語釈に取り掛かったところ、
さっそく壁に突き当たりました。

その五・六句目に、次のような句があります。

三公奏諸公  三公の奏すらく 諸公は、
不得久淹留  久しく淹留するを得ず、と。

これは、新しい皇帝が即位したことに伴って、
最高位の大臣三者の奏上により、
藩国を守るべき諸侯は、久しく都に留まることが許されなくなった、
ということを指すと見てよいでしょう。

「聖皇篇」は漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」に基づいていますが、
この章和二年(88)に起こった出来事がまさしくそれです。
章帝の崩御に伴い、その兄弟たち諸王は各々の国に就くこととなりました。

また、先日指摘したとおり、
これと同一の出来事が、和帝の崩御した翌年(106)にも起こっています。

さらに、今「聖皇篇」を詠じている曹植もまた、
曹丕が魏の文帝として即位した時に、他の兄弟たちとともに封土に赴いています。

ではなぜ「諸侯」ではなく「諸公」なのでしょうか。
封ぜられた土地に赴き、王朝の藩(まがき)となるのは諸侯の任務ですから、
「諸侯(すなわち諸王)」と記されてもよいところです。

不思議に思っていたところ、
朱緒曾『曹集考異』巻六にこのような指摘がありました。

「三公奏諸公、不得久淹留」とは、
魏王(曹操)の葬られし後、諸侯みな国に就くをいうなり。
其の時、丕は未だ諸弟の爵を進めて王と為さず。故に「諸公」と称するなり。

疑問がほどけたように感じました。
たしかに文帝曹丕が弟たちの爵位を王に進めたのは黄初三年(222)で、
曹植らがそれぞれの封土に赴いた黄初元年(もしくはその翌年)より後のことです。

それで、曹植がもし
「諸侯」と「諸公」とをこのように弁別して用いていたとするならば、
「聖皇篇」は、彼が身を置く曹魏王朝の現実と接触する内容をもつことになります。

一方で、この歌辞の内容と同一の出来事は、
後漢王朝の時代、少なくとも二度までも繰り返されていて、
「聖皇篇」では、この歴史的事実もまた丁寧に写し取られている印象があります。

すると、この作品は、歴史的事実と今の現実との双方に触れているようです。
右往左往した挙句、ひどく当たり前のところに帰着しました。

ただし、歌辞の半ば以降、「諸王」という語が二箇所出てきます。
呼称がこのように転換している理由は今後考えます。

本日の札記が無意味となる可能性もありますが、
あれこれ考えて試行錯誤してこそ研究は面白いのだと思っています。

2024年12月27日