「八幡八景」と悦峰

「厳島八景」の成立は、
公家たちによる和歌が奉納された、正徳五年(1715)五月と見てよいでしょう。
以降、八景題による和歌、漢詩、発句等が各方面から奉納されました。

その中でも早い時期の作品として、
黄檗宗万福寺の第八代住持、悦峰の詩序を冠する
僧侶たち(悦峰を含む)による八景詩(『芸藩通志』巻31)があります。
悦峰「厳島八景詩序」の記述から割り出すと、
その奉納は、享保元年(1716)頃のことであったと推定されます。*1

さて、この悦峰は、『八幡八景』にも、
「黄檗山悦峰」として、次のような漢詩が収載されています。

閑雲朝日鎖雄峰  閑雲 朝日 雄峰を鎖(とざ)し
多少楼台興最濃  多少の楼台 興ること最も濃き
移得祝融山頂翠  移し得たり 祝融 山頂の翠
永為玉柱万年松  永く玉柱の万年の松為らん

「八幡八景」は、
石清水八幡宮神職の柏村直條が八景の題詠を有栖川幸仁親王に乞い、
太上皇(霊元)の定めを経て、
元禄六年(1693)冬十二月、歌詩図画共に成りました。*2

東京都立中央図書館加賀文庫に稿本二種があり、
一本は、正徳六年(1716)に山田直好が筆写した『八幡八景』、
一本は、昭和九年(1934)に筆写した『八幡雄徳山八景』、
今、仮に前者を正徳本、後者を昭和本と称すると、
正徳本所収作品はすべて、昭和本の中に包摂されるといいます。*3

悦峰の漢詩は、この昭和本の方に収載されています。

さて、悦峰(1655―1734)は、
1686年、32歳で、長崎の興福寺に招かれて来日し、
1707年、53歳で、万福寺の住持に命ぜられ、長崎から京都に移りました。

すると、「八幡八景」の成立当初(1693)、
悦峰はまだ、長崎の興福寺にいたということになります。

ならば、悦峰による「雄徳山松」の漢詩は、
一旦「八幡八景」が成立した後に寄せられたのでしょう。

こうした八景文芸の広がりは、
冒頭に記した「厳島八景」のそれを想起させます。

悦峰の詩を含む昭和本が、
正徳本に比べてはるかに収載作品数が多いのは、
「八幡八景」文芸の展開を示唆しているように思われます。

2024年12月30日

*1 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直条」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)を参照されたい。なお、「柏村直條」を正しく表記せず、このように当用漢字を安易に用いていることを、伏しておわびし、今後は改めることと致します。
*2 『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』(古文書の会八幡編集・発行、2013年輪読開始、2017年輪読終了、2018年発行)p.80を参照。
*3 伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)p.7に指摘する。