「厳島八景畫圖」の奉納
元文四年(1739)に刊行された『厳島八景』の上巻(12葉目の表)に、
「八景畫圖奥書」として、次のような文章が見えています。*1
安藝州宮島者、神德威霊而天山之絶境也。故従古為畫圖以傳于世。就中取其最勝者、今為八景圖。余固敬其神、且愛其景。今應某需自写其圖、以奉納之、永禱助福云。
享保六稔仲冬十有五 龍作水原判
奉納畫圖 六條中納言有藤卿染筆
安芸の州 宮島は、神徳威霊にして天山の絶境なり。故に古より画図を為して以て世に伝ふ。就中(なかんづく)其の最勝たる者を取りて、今八景の図と為す。余は固(まこと)に其の神を敬し、且つ其の景を愛す。今 某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写して、以て之を奉納し、永く助福を祷ると云ふ。
享保六年(1721)仲冬(11月)十有五 龍作水原判【未詳】
奉納画図 六條中納言有藤卿染筆
本文中に「某の需に応じて」とあるのは、
石清水八幡宮の神職、柏村直條からの依頼に、
六條有藤が応じたことをいうのではないかと考えます。
すでに述べているとおり、*2
「厳島八景」の事実上の撰者は柏村直條だと見て間違いありません。
そして、その構想にあたって彼がまず念頭に置いたのは、
彼がかつて編成した「八幡八景」であり、
その「八幡八景」は、和歌、漢詩、発句、絵画からなる総合文芸でした。*3
柏村直條は「八幡八景」をひとつのひな型として「厳島八景」の総体を思い描いていた、
だからこそ彼は、公家たちの八景和歌が成って奉納された後も、
里村家に発句を、公家たちに漢詩を、更にこの六條有藤に絵図を奉納するように、
熱心に働きかけを続けたのではないかと推察します。
柏村直條を魅了した宮島の景観。
宮島の美を見出し、その総合文芸としての具現化に動いた柏村直條。
両者のエネルギーが実を結んで誕生したのが「厳島八景」ではないかと考えます。
2024年12月31日
*1 高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)を参照。句読点はこちらで随時打ち、訓み下しはすべて当用漢字に改めた。一部に送り仮名を改めたところがある。『厳島八景』(松半舎、 元文四年)は、早稲田大学図書館により公開されている。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he01/he01_01300/index.html
*2 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直條」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、同「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)で論じた。
*3 竹内千代子・小西亘・土井三郎『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(昭英社、2023年)、伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)を参照。