曹植「聖皇篇」札記2
曹植「聖皇篇」は、漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」をなぞりつつも、
曹植自身が直面している魏王朝の時代を背景としているらしい。
そのことを窺わせる事例を、先に示しました。
それと同様な事例を今日も示します。
それは、これから王が封国に赴く段を描写する次のような部分です。
便時舎外殿 良き時を待って外の御殿に逗留すれば、
宮省寂無人 宮中の官庁はひっそりとして人の気配もない。
主上増顧念 主上はいよいよ篤く気にかけてくださり、
皇母懐苦辛 皇母はひどく辛い思いを抱く。
もしこの歌辞が、本当に章和二年中の出来事を詠じているのならば、
「主上」である和帝劉肇は当時十歳です。
「皇母」は、和帝の生みの母梁貴人を死に追いやった、育ての母竇皇后です。
「主上は顧念を増し、皇母は苦辛を懐く」にはあまり馴染みません。
もし、章和二年の事が繰り返された延平元年(106)を背景とするのであれば、
(このことは先にこちらで述べました。)
当時帝位にあった殤帝劉隆は生後間もない乳児です。
(『後漢書』巻4・孝和孝殤帝紀)
ですが、これを曹魏王朝初期の出来事であると見るならば、
「主上」たる文帝曹丕は三十四歳、
「皇母」は、曹丕と曹植の生みの母、卞皇太后です。
前掲詩句での描写は、まさしく二人のあり様に合致するものでしょう。
曹植の「聖皇篇」は、
随所に後漢時代の出来事を彷彿とさせる描写をちりばめながら、
曹魏王朝当代のことを詠じていると言えそうです。
これはひどく当たり前のことのように思われるでしょうか。
しかし、作品の詠ずる内容が作者の直面していた現実と重なるのは、
必ずしも自明のことではありません。
2025年1月7日