民間説話における「母」への傾き(承前)

以前、こちらで書いたことに関して、
後漢初めの班固(32―92)に、次のような記述があることに気づきました。
『白虎通』の号の項に、始めて人道を定めた伏羲に関連して、
太古の人々の状況を次のように記しています。

古之時、未有三綱六紀、民人但知其母、不知其父。
 太古の昔、人としての規範である三綱六紀*は未だ定まらず、
 民たちはただその母親を知っているだけで、その父を知らなかった。

儒教という道徳的規範が社会を覆う以前、
人々の気持は、人為的にその役割が高く標榜された父性よりも、
生き物としてより自然に、母なる者の方に向かっていたということでしょう。

たとえば、曹植「鼙舞歌・霊芝篇」にも詠じられた董永の故事について、

前漢の劉向(BC77―BC6)『孝子図』や、
東晋の干宝(?―336)『捜神記』に記すところでは、
董永が弔い供養したのは父親であったことが記されていますが、

他方、唐代の「董永変文(董永行孝)」では、
父親に加えて母親もその供養の対象となっています。
そればかりか、董永と天女との間にできた子が、天上界に母を探しに行きます。

董永の故事を詠ずる変文には、
漢代六朝期の文献に見える故事を膨らませた部分はもちろんあるでしょう。
ですが、この故事の古層に属する部分が温存されている可能性もあるように思います。

伝存する文献を、時系列に並べて、進化論でもって説明するのではなく、
文献資料とは異なる次元で推移する(あるいは堆積していく)、
口承で伝えられる物語の存在を想定することができるのではないかと考えます。

2025年5月12日

*『白虎通』三綱六紀に、「三綱者、何謂也。謂君臣・父子・夫婦也。六紀者、謂諸父・兄弟・族人・諸舅・師長・朋友也(三綱なる者は、何をか謂ふや。君臣・父子・夫婦を謂ふなり。六紀なる者は、諸父・兄弟・族人・諸舅・師長・朋友を謂ふなり)」と。