昔と今と
昨日触れた傅玄の「苦相篇・豫章行」(『玉台新詠』巻2)には、
その末尾に次のような句が配せられています。
昔為形与影 昔は姿形と影のように一緒にいたのに、
今為胡与秦 今は胡と関中のようにかけ離れている。
胡秦時相見 胡と関中とでは時には会うこともできようが、
一絶踰参辰 ひとたび決裂すれば参星と辰星との隔絶をも越えてしまう。
このうちの特に上の二句は、
蘇武の「詩四首」其一(『文選』巻29)に見える次の句、
昔為鴛与鴦 昔は一対の鴛鴦のように一緒にいたのに、
今為参与辰 今は参星と辰星のように隔絶したところにいる。
昔者常相近 昔はいつも身近なところにいたのに、
邈若胡与秦 まるで胡と関中とのように遠く隔てられている。
これを踏まえることは間違いないでしょう。*
昔と今とを対比させる「昔為」「今為」という措辞、
加えて、「胡与秦」、「参」と「辰」とを並置する表現から、
そのように判断することができます。
同様な表現は、曹植の「種葛篇」(『玉台新詠』巻2)に、
昔為同池魚 昔は同じ池に棲む魚だったのに、
今若商与参 今は商星と参星のように遠く隔てられている。
往古皆歓遇 往年は二人とも会えば歓楽を共にする間柄だったのに、
我独困於今 私はひとり、今この時に行き悩んでいる。
同じく曹植の「浮萍篇」(『玉台新詠』巻2)に、
在昔蒙恩恵 その昔、恩愛の恵みを賜り、
和楽如瑟琴 琴瑟の音が響きあうように、和やかに睦み合っていた。
何意今摧頽 ところが、思いがけなくも私は今ぼろぼろに落ちぶれて、
曠若商与参 あなたとはまるで商星と参星のように遠く隔てられている。
と見えるほか、徐幹の「室思」(『玉台新詠』巻1)にもこうあります。
故如比目魚 もとは比目の魚のようにいつも一緒にいたのに、
今隔如参辰 今は遠く隔てられて参星と辰星のようだ。
仲睦まじく共にいた「昔」と、
離別を余儀なくされている「今」とを対比させるこのような表現は、
おそらくは前掲の蘇武の詩に発祥し、
漢魏の間、それを踏まえて展開させた作品が、
ここに示したもの以外にも多く作られただろうと推測します。
西晋の傅玄は、そうした数ある作品に、
どのように出会い、それらをどのように摂取したのでしょうか。
2025年9月11日
*蘇武の詩は、「古詩十九首」其二(『文選』巻29)にいう「昔為倡家女、今為蕩子婦(昔は倡家の女為り、今は蕩子の婦為り)」を踏まえている可能性が高い。いわゆる蘇李詩と古詩との関係については、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の第四章第四節「漢代五言詩歌史上に占める蘇李詩の位置」を参照されたい。