研究方法の流行り廃り(改め)

昨日、研究手法に流行り廃りもない、と言ったばかりですが、
その後ふと思い至ることがありました。

そういう自分も、その大きな流行り廃りの中にいるじゃないか、と。
私は、作品の表現を通して、その作者が何を思っていたのかを探究したい。
こうした興味関心の持ち方は、自分が研究対象としている時代の人々には希薄でした。

自分は、作品を通して作者の魂に触れることに引かれますが、
このような視角からのアプローチは、大枠、近代以降のうねりの中にあるものでしょう。
その中で、これを乗り越え、別の方向を模索する研究が登場してきている、
それが、昨今の研究動向なのかもしれません。

今を時めく主流的研究手法とは、要するに、
その時代の基本的なものの捉え方、大枠に沿っているということです。
大事なのは、その大きな枠組みの中に自身が位置していて、
時代の思潮から多かれ少なかれ影響を受けていることに自覚的であるかどうか。
そこが慎重を期するところなのだと思い直しました。

清朝考証学の先達たち、明代、唐代、更に遡って六朝期の先達たちも、
やはりそれぞれの時代特有の傾きと盲点とを持っています。

けれども、そうしたものを差し引いてもなお残るものがあります。
それが、たとえば『文選』李善注のような、典故表現の指摘だったりします。

自己流の解釈は、時代が移ろえば、また忘れ去られるかもしれません。
けれども、学術的な指摘というものは残ると考えます。

2025年9月15日