偏義複詞の「有無」
曹植「鼙舞歌・冬篇」を読んでいて、
「太官供有無」という意味の取れない語に遭遇しました。
「太官」は、宮中の食事を掌る役人のことで、
たとえば『漢書』巻19上・百官公卿表上の顔師古注に、
「太官、主膳食(太官は、膳食を主る)」と説明があるので分かります。
すると、「供」は酒や食事を供給するということなのでしょう。
わからないのが「有無」です。
「有りや無しや」ではまったく意味が通じません。
そこでふと思い出したのが、かつて読んだ白居易詩の表現でした。
「寄微之」詩(『白氏文集』巻10、0496)に、次のような句が見えています。
努力各自愛 努力して各ゝ自愛し、
窮通我爾身 我と爾との身を窮通せん。
ここにいう「窮通」は、
この語が通常意味する困窮と栄達とではなく、
もっぱらその「通」の方、栄達することの方を意味しています。
すると、前掲白詩の二句を通釈すれば、
「各々自らを大切にし、君と私との未来が開けるよう、がんばろう」
のようになるでしょう。
曹植「孟冬篇」の「有無」もこれと同じように捉えて、
「ありったけのもの」という意味に取ることはできないでしょうか。
以上のことは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.279に、
有無、偏義複詞、此処只取其「有」義、謂宮中所有的酒肉飯食。
と指摘されていることに導かれたものです。
2025年9月18日